瀬戸内町古仁屋の二日目は、地元の島料理の人気店リッキに入る。前夜も寄ったが満員だったので予約しておいた。主人が漁師なので刺身の鮮度が良い。まずはマグロの刺身をいただく。
鳥のから揚げやチキンステーキなどもあるが、島料理は島豚が多い。豚タン塩焼きも美味しそうだが、豚耳炙りポン酢を頼む。沖縄料理ではいつも細切りにしたミミガーそのものを食べたが、この店では野菜ものせてポン酢風味にしているのが嬉しい。
トコブシのバター焼きもあったが、トコブシのステーキを選んだ。バター焼きより醤油味のたれが多くて美味しいと感じた。
ゴーヤ料理も沖縄のゴーヤチャンプルではなく、素朴なゴーヤサラダを選んだ。ゴーヤそのものを味わう感じ。
アオサのだし巻き卵もアオサの緑がきれいなので食欲を誘った。地元の人が多く賑やかな店内で、黒糖酒とともに奄美の郷土料理を堪能した。
宿の前に奄美戦史模型資料館があったので、どんなものか様子見に入って見た。旧日本軍の戦艦や航空母艦、駆逐艦など約150点の模型を常設展示している。そのほかに、瀬戸内町戦跡分布図や戦後の米軍統治下で繰り広げられた奄美群島の日本復帰運動の資料も展示されている。奄美群島の日本復帰は1953年12月であった。1972年の沖縄の復帰より早いけれども、8年余り米軍に統治されたことになる。
特攻震洋の詳細な説明もある。実戦配備後ほぼ一年での戦死者は2,500人以上だが、アメリカの資料では連合国の艦船の損害は4隻だったという。終戦時に本土決戦に備えて約4,000隻が実戦配備されていた。
瀬戸内町立郷土館では、瀬戸内町の歴史や文化、伝統芸能などの資料を展示している。今では絶えてしまったノロの祭具などの資料もある。ノロとは琉球王府の保護下で村落の祭祀を司っていた神女で、一生に一度、王府に貢物を持って参上し、国王の姉妹神である聞得大君(きこえのおおきみ)より辞令書を受け、玉類、衣類などを入手し帰ってきた。親ノロの下にいくつかの役職があるが、神役の一人ひとりはカミンチュ(神人)と呼ばれた。
琉球諸島では死者を木棺に納めて土葬した後、3年または5年経って土地の中の骨を洗骨し、改めて骨壷の中に入れて埋葬する、洗骨の習慣があった。奄美諸島に見られる厨子甕(骨壷)は、沖縄で焼かれたものが流通していた。形には御殿型や壺形があり、新しいものには釉薬が使われ、古いものには素焼きが多い。
20代半ばで加計呂麻島、与路島を訪れた時には、奄美南部のどこでも手に入った「瀬戸ノ灘」が特に気に入り、東京に帰ってからも当分の間よく買い求めて飲んだので、民具の間に看板を見つけて懐かしく思った。昔の奄美では蒸留酒ならなんでも「泡盛」と呼んでいたという。
瀬戸内で代々、与人(よひと)をつとめていた旧家の一つに、加計呂麻島伊子茂の西家がある。今も残る西家の建物は、天保年間(1830-44)に八代目西能永通(のうえつ)が薩摩の宮大工を招いて建築した書院造である。西家に残されていた民具が展示されていた。
奄美で見られる鳥の剥製は実に鮮やかである。コゲラやカワセミは本土でも見かけられるが、アカヒゲは奄美大島以南の特産種で国の天然記念物に指定されている。加計呂麻島の実久三次郎神社の境内で見かけたリュウキュウアカショウビンは、本土で見かけるアカショウビンとは少し違うようだ。