半坪ビオトープの日記

伊雜宮


外宮参観の後、内宮は帰りがけに寄ることにして、伊勢道路を南東に進み、伊雜宮(いざわのみや)を訪れた。「いぞうぐう」とも呼ばれ、一般に伊雑宮と雜の常用漢字体を雑の新字体で表すことが多い。皇大神宮(内宮)の別宮で、内宮背後の島路山を越えた志摩市磯部町にあり、古くから皇大神宮の「遥宮(とおのみや)」として知られる。伊勢神宮別宮14社の内、伊勢国外唯一の志摩国の別宮で、神田を持つ唯一の別宮である。

鳥居をくぐって境内に入るとすぐ左手に衛士派出所があり、右手には宿衛屋(社務所)がある。境内には楠の巨木が多いのだが、宿衛屋の左手にある楠の大木は、根元が異常に丸く膨れ、かぼちゃのように見える。「巾着楠」と呼ばれ親しまれているという。

薄暗い参道を進むと左手に小さな井戸があり、なおも進むと右手に、神饌を調理する忌火屋殿が建っている。板葺きの屋根には、煙を抜くための穴が空いている。

忌火屋殿の左手には、吹き抜けの祓戸と御倉が建っている。祓戸は、諸祭典の神饌と奉仕の神職を、祭典前に祓い清める場所である。

西に向かう参道の突き当たりに、南面している伊雑宮の社殿が見えてくる。手前には古殿地があり、心御柱の覆屋がある。伊雑宮式年遷宮は、外宮・内宮の式年遷宮の翌年に執り行われる。
創建は不詳だが、神宮では以下のように説明している。伊雑宮の創立は、約2000年前の垂仁天皇の御代という。鎌倉時代成立の『倭姫命世記』によると、伊勢神宮の内宮を建立した倭姫命が神宮への神饌を奉納する御贄地(みにえどころ)を探して志摩国を訪れた際、伊佐波登美命が出迎えた当地を御贄地に選定して伊雑宮を建立したとされる。神宮ではこの説をとるが、一般には『倭姫命世記』が史書とされず、該当箇所は伊雑宮神官が後世に加筆したとされることから、創建は不詳とすべきである。
延暦23年(804)の『皇大神宮儀式帳』および延長5年(927)の『延喜太神官式』に、「天照大神の遥宮」と記載があるため、それ以前から存在したことがわかる。志摩地方は奈良時代以前から海洋部族である礒部氏の根拠地であり、彼らが祀っていた神の社と、当宮との関係については様々な説が挙がっているが、いずれも定説となっていない。

平安時代末期の治承・寿永の乱源平合戦)では、伊勢平氏の地盤だった伊勢国への源氏勢の侵攻が予想され、伊勢志摩両国を平家が警備した。養和元年(1181)伊雑宮は源氏の味方となった紀伊熊野三山の攻撃を受け、本殿を破壊され神宝を奪われてしまう。熊野三山の勢力はさらに山を越えて伊勢国に攻め込むが、反撃を受け退却した。平治の乱(1159)では平家に味方した熊野三山が、治承・寿永の乱では源氏に味方した理由として、当時の熊野三山と対立した伊勢神宮を平家が優先したためとされる。
鎌倉時代に編纂された『吾妻鏡』には、源頼朝が神宮に祈願した際、神馬を伊雑宮に贈ったと記されている。中世になると伊雑宮にも御師が現れ、明応から慶長(1492~1615)の頃には檀那を持つに至った。やがて伊雑宮の神格を高めようと、磯部の御師の間に、内外両宮は伊雑宮の分家であるという主張が生まれ、『日本書紀』にある「磯宮」『倭姫命世記』の「伊蘇宮」などが伊雑宮であるとの説を立て、度々神訴に及んだが、明暦4年(1658)朝廷からの綸旨・裁決によって伊雑宮は内宮の別宮と定められた。

その後、伊雑宮を本来の内宮とする偽書を作成したとされる「先代旧事本紀大成経事件」が起こる。延宝7年(1679)江戸の書店で『先代旧事本紀大成経』(72巻本)という書が発見された。大成経の内容は、伊勢神宮別宮の伊雑宮神職が主張していた、「伊雑宮が日神を祀る社であり、内宮・外宮は星神・月神を祀るものである」という説を裏付けるようなものとわかり、内宮・外宮の神職がこの内容について幕府に詮議を求めた。天和元年(1681)幕府は大成経を偽書と断定し、江戸の版元「戸嶋惣兵衛」、書店にこの書を持ち込んだ神道家・永野采女と僧・潮音道海、偽作を依頼したとされた伊雑宮神職らを処罰した。後に大成経をはじめ、由緒不詳の書の出版・販売が禁止された。しかし、幕府の目を掻い潜って大成経は出回り続け、垂加神道などに影響を与えている。
日神信仰・太陽神信仰については、伊雑宮とは別にいろいろな説が出されているので、内宮の話の時に改めて取り上げることにする。
伊雑宮の祭神は、天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)という。『皇大神宮儀式帳』では天照大神御魂とされる。中世から近世の祭神には諸説あり、中世末以降は伊雑宮神職の礒部氏の祖先とされる伊佐波登美命と玉柱命(または玉柱屋姫命)の2座を祀ると考えられた。伊雑宮御師である西岡家に伝わる文書において、祭神「玉柱屋姫命」は「玉柱屋姫神天照大神分身在郷」と書かれ、同じ箇所に「瀬織津姫天照大神分身在河」とある。両神はつまるところ同じ神であると記されている。明治以降、神宮要綱に伊雑宮の祭神は天照大神御魂一柱とされた。
伊雑宮の社殿は、内宮の別宮とほとんど同じ萱葺の神明造で、鰹木は6本で偶数、千木の先は内削ぎである。

伊雑宮は、伊勢神宮の14ある別宮の中で、神田を持つ唯一の別宮である。鬱蒼とした境内の杜の南に広い御料田、御田がある。磯部の御神田(いそべのおみた)と呼ばれ、極めて古くから伊雑宮に伝わる御田植祭そのものも御神田と呼ばれ、国の重要無形民俗文化財に指定され、日本三大田植祭の一つとされている。

磯部の御神田の開催日の6月24日は、倭姫の巡幸の際に7匹のサメが野川を遡上し、命に伊雑宮の鎮座地を示したという「七本鮫」伝承に基づく。毎年この日には7匹のサメが伊雑宮に参詣するとされ、近隣の漁師は休漁する習慣がある。

起源は定かではないが、平安時代末期には現在の形が成立したとされる。伊雑宮への参拝・修祓の後、神田にて苗取り、竹取神事、御田植神事と続き、少年二人による「刺鳥差(さいとりさし)」の舞や一同の踊り込みがあり、神田から伊雑宮一の鳥居まで200mを2時間かけて練り歩き、1日かけた祭の幕を閉じるという。
定説ではないが、伊雑宮の起源には、近世以前の志摩国では伊雑宮周辺の土地のみが水田による稲作に適したことから当社が成立したとする説や、志摩国土着の海洋信仰によるとする説などがある。