半坪ビオトープの日記

内宮、大山祇神社


楽殿の先を右手に曲がるとすぐ左側に御厩(うちのみうまや)がある。内宮には厩が二つあり、こちらは内御厩という。

参道を北に進むと、火除橋の手前にある新しい手水舎の脇から、右手に御池が垣間見られた。ほとんど人が近づくこともなく佇む御池には、水草がたくさん生えてひっそりとしていた。

火除橋を渡った先にも御厩が建っている。こちらは外御厩で、皇室から牽進された神馬が飼育されている。神馬は、毎月1日、11日、21日の3度、菊花紋章の馬衣をつけて神前に見参する。

白い神馬の名前は、空勇(そらいさむ)号という。芦毛アングロアラブ種で、以前は皇居で飼育されていたそうだ。

参拝者の休憩に使われる参集殿を過ぎると、すっかり人の姿がなくなる。最後に左手の宇治橋に戻る前、神苑の北の奥に神宮司庁がある。神宮司庁は、神宮の祭儀や関連事務を行う機関で、明治4年(1871)に設置され、のちに内務省所管となり、昭和26年(1951)以降は一宗教法人として神宮規則により運営されている。現在、神宮では、祭主の下に大宮司・小宮司禰宜10名・権禰宜20名・宮掌40名のほか、主事や技師、衛士、神苑・博物館等の管理など合計600人を超える職員が働いている。

宮司庁入り口のさらに右手奥に、子安神社と大山祇神社が並んで鎮座している。両社の境内入り口に鳥居が建っている。

手前の子安神社は、内宮の所管社30社の内の第30位である。創建は不詳だが、元は宇治館町の産土神であったとされる。祭神は木花開耶姫神(このはなさくやひめかみ)である。大山祇神社の祭神・大山祇神の娘で、瓊瓊杵命(ににぎのみこと)の妻であり、猛火の中で3柱の子を出産したとされる。その神話から、安産、子授け、縁結び、厄除けの祈願が行われ、神前に小さな鳥居が奉納されている。

大山祇神社は神路山の山裾にあり、旧称を山神社といい、昔は、神宮式年遷宮の最初の祭儀である「山口祭」がこの神社で催行されていたとされる。その後、御杣山の移動に伴い、山口祭の祭場が移動し、大山祇神社に捧げられることはなくなった。祭神は大山祗神伊弉諾命・伊奘冉命の子であり、山の守護神とされる。創建は不詳。子安神社とともに、『延喜式神名帳』および『延暦儀式帳』に記載がないため、明治5年(1872)に神宮所管からはずされ、明治12年以降、大山祇神社は地元・宇治館町の産土神となった。その後、復帰の願いが受け入れられ、明治33年(1900)子安神社とともに両社の社地が再び内宮に編入された。社殿は大正11年(1924)に再建されたものである。