半坪ビオトープの日記

内宮、風日祈宮 


第二鳥居をくぐった所で右に折れると、風日祈宮に通じる風日祈宮橋を渡る。

宇治橋に似た橋の両側には、神明鳥居が建っている。向こう側の南端の擬宝珠に「太神宮風宮 五十鈴川御橋明応七年戌午本願観阿弥 敬白」の名が刻まれていて、明応7年(1498)に勧進聖の神忠により架けられたといわれている。

古くはこの橋が架かる川が五十鈴川本流とされ、この橋を五十鈴川橋と呼んだが、最も長い川が河川の本流と定義されて後は、島路川および風日祈宮橋と呼ぶようになった。

風日祈宮橋は島路山を源とする島路川に架かり、島路川はこの先の御手洗場辺りで五十鈴川に合流する。

風日祈宮橋を渡ると右側に、内宮の境内別宮である風日祈宮(かざひのみのみや)がある。祭神は外宮の風宮と同じく、級長津彦(しなつひこ)命と級長戸辺命の2神である。記紀では、イザナギイザナミによる国生みの後、自然神を生む場面に出てくる風を司る神である。『古事記』では「志那都比古神」とのみ表記されるが、『日本書紀』では「級長戸辺命」または「級長津彦命」と表記される。神名の「シナ」は「息が長い」という意であり、級長津彦は男神、級長戸辺は「シナトメ(息長の女)」との意で、女神とされる。奈良県龍田大社の祭神は天御柱命国御柱命だが、社伝や祝詞では志那都比古神・志那都比売神とされるなど、男女一対の神の例がある。
由緒は定かではないが、延暦23年(804)の『皇大神宮儀式帳』に「以御笠縫内人(みかさぬいのうちんど)造奉御蓑廿二領、御笠廿二蓋、即散(あがち)奉、太神宮三具(中略)風神社一具」とあり、この「風神社」が初出とされ、古くは末社格の風神社と称していたことがわかる。御笠縫内人とは、延長5年(927)の『延喜太神宮式』には「是日(旧暦4月10日)笠縫内人等供進蓑笠」とあり、その日に風雨の平らかなることを祈願して蓑や笠を奉るために設けられた職であることがわかる。後世、鎌倉時代頃には、この祭りを「御笠(みかさ)の神事」とも称した。さらに『延暦儀式帳』には御笠縫内人の4月の祭りの他に、旧暦の7月8月の2ヶ月間、風雨の平安と五穀の豊穣を朝夕日毎に祈願する「日祈内人(ひのみのうちんど)」と呼ばれる職掌による神事が記されている。のちに旧暦7月4日(今の8月4日)の神事となり、旧暦4月14日(今の5月14日)の神事と合わせて年2度の「風日祈祭」となった。祭神が農耕に都合のよい風雨をもたらす神であることから風日祈祭が行われたのであり、神嘗祭では懸税(かけちから、稲穂)が供えられるなど重視された。弘安4年(1281)の元寇では朝廷より勅使が派遣され、風神社と風社で祈祷を行い、元軍が退却し国難が去ったことから、正応6年(1293)に風神社と風社は別宮に昇格し、風日祈宮と風宮になった。

風日祈宮の社殿は、内宮に準じ内削ぎの千木と、6本で偶数の鰹木を持つ萱葺の神明造で、南面して建っている。

風日祈宮からまた第二鳥居まで戻ると、右に曲がった左の角に神楽殿が建っている。神楽殿では私祈祷の神楽が行われ、希望者は奉納の後に饗膳所直会を行える。神札授与所では、神楽の受付のほかに朱印の受付、正宮・別宮の神札や御守、神宮暦などの授与も取り扱っている。

楽殿は、銅板葺・入母屋造の大きな建物で、向かって右端から神楽殿、御饌殿、神札授与所が並んでいる。神楽殿の手前右側には、吹き抜けの五丈殿が見える。