半坪ビオトープの日記

茨城

笠間稲荷神社

笠間市の中心部に笠間稲荷神社がある。創建は不詳だが、社伝では白雉2年(661)に創建されたという。参道に建っているはずの一の鳥居、二の鳥居が礎石のみ残して消えているのは、東日本大震災で破損し、倒壊の恐れがあるので撤去されたままである。正面の楼…

楞巌寺

笠間駅の西北約6kmほどの辺りに仏頂山(431m)があり、その麓に楞巌寺(りょうごんじ)がある。寺の裏山と片庭の八幡神社の広葉樹林は、日本北限のヒメハルゼミの発生地であり、片庭の大蝉として知られ、国の天然記念物に指定されている。 丘を越えて田んぼ…

西念寺

笠間市で親鸞の縁の地といえば、浄土真宗別格本山である、稲田山西念寺である。建永2年(1207)法然の吉水教団門下の親鸞は承元の法難により流罪となり、越後国国府に配流された。建暦元年(1211)に赦免の宣旨が下がった後も2年半ほど越後に留まった。建…

稲田神社

出雲大社常陸分社から少し東に進むと、笠間市稲田(常陸国新治郡)に稲田神社がある。 創祀年代は不詳だが、続日本紀によると、遅くとも延暦16 年(797)には創建されていたと見られる。出雲国造と同祖であった新治国造が奉斎した神社で、延喜式内名神大社の…

出雲大社常陸分社

笠間市の西のはずれ福原に、出雲大社常陸分社がある。平成4年に出雲大社より大国主命の分霊を勧請した新しい神社である。 この大鳥居は、近くに採掘場がある稲田みかげ石で造られ、高さが約11m、笠木が約14mと、明神鳥居形式としては日本最大級である。 …

加波山普明神社、加波山神社

加波山三枝祇神社本宮、親宮は、この真壁側が中心信仰圏だが、加波山神社(中宮)の中心信仰圏は、真壁とは反対側の石岡市(旧八郷町)側にあり、八郷のたばこ農家の信仰が篤く、そのため「たばこ神社」も建立している。 境内左奥に、加波山五社稲荷社がある…

加波山三枝祇神社、合祀殿

加波山には、加波山神社(もと加波山天中宮)・加波山三枝祇(さえなずみ)神社本宮(もと加波山本宮)・加波山三枝祇親宮(もと加波山新宮)の3つの神社が座し、総じて加波山大権現と称していた時代もある。江戸時代には、中宮が文殊院、本宮が正幢院、新…

月水石神社

もう一度つくば道に戻って、臼井地区の飯名神社の近くの稲葉酒造場を探しているときに、月水石神社という聞き慣れない名の神社の案内を見つけた。鬱蒼とした森の中の細い道をたどって進むと小さい社が見えてきた。 月水石神社の手前には、祭神として祀ってい…

筑波山大御堂

筑波山神社の拝殿とその左にある参集殿の間をくぐって左に進むと、参拝者への御清めの水、御神水が湧き出ている。水源は、十一面観音を安置する神窟である。 御神水の左の石段を上がって行くと朱色の鳥居をくぐった先に、境内社が二つ並んで建っている。 左…

筑波山神社、拝殿

筑波山神社の祭神は、筑波男大神(イザナギ)と筑波女大神(イザナミ)の2柱で、延喜式には男体権現が名神大社、女体権現は小社と記されている。古くから山全体が神霊の宿る霊地であり、筑波山山頂にそれぞれ本殿(男体山神社・女体山神社)を奉斎する。中…

筑波山神社、随神門

筑波山の中腹、標高約250mの緑深き森の中にある筑波山神社は、西峰(男体山)と東峰(女体山)を神体とした、縁結び・夫婦和合の社として知られている。大きな神社なので西のはずれの駐車場から境内に入った。そのため参道の始めにある神橋を上から眺めるこ…

飯名神社

つくば道を筑波山神社に向かって戻り、臼井集落の飯名岡と呼ばれる丘陵上に、飯名神社がある。創建は不詳だが、和銅年間(713-23)に編纂された「常陸国風土記」信太郡の条に「その里の西に飯名の社あり これ即ち筑波の岳にある所 飯名の神の別属(わかれ)…

普門寺

つくば道に戻って少し南下すると、左手に普門寺がある。まっすぐのびた参道の突き当たりには、黒門と呼ばれる黒い山門がある。これは内側から見た黒門である。建立年代は不詳だが、筑波地域で最も古い寺社建造物の一つである。 黒門の先に、赤門と呼ばれる赤…

蚕影山神社、本殿

蚕影山神社の拝殿の右手に、これまた古びた額殿(絵馬殿)がある。筑波山周辺は、古来より絹に縁のある地域だが、江戸時代から明治の初期までは木綿の栽培が主流だった。明治・大正時代に入ると日本の産業として盛んに養蚕が行われ、「養蚕の神様」として農…

蚕影山神社、拝殿

そば「ゐ田」の前のつくば道をもう少し下り、案内板に従い、左(東)に曲がった突き当たり、神郡集落の館地区に蚕影山神社がある。昔は入口付近に土産物屋や茶屋がたくさんあったそうだ。 標高200mの蚕影山の山麓に鎮座しているため、最初から最後まで次から…

そば「ゐ田」

今でこそ車で簡単に筑波山神社まで行き着くことができるが、昔は歩いて上った。神社までの江戸時代の参詣道をつくば道という。その急な坂道を神社から下って行くと、里と神域との境に六丁目の鳥居があり、その先左側に手打ちそば「ゐ田」がある。15年ほど前…

西光院、懸造り

関東の清水寺とも呼ばれる西光院の本堂は、岩棚状の細長い敷地の奥の崖に懸け出して建てられた懸造りの建物である。 岩肌に脚柱を建て、舞台型を作った上に、桁行3間梁間3間寄棟造瓦棒鉄板葺の本体を組んでいる。建坪57.6㎡、総高22m、脚高11mとされる。 …

西光院、立木観音

石岡市の中心から北西に進み、筑波山から加波山に続く山並の山麓あたりに、天台宗の峰寺山西光院がある。入口右手手前には青竹が生い茂っている。 細い道を進むと、庫裏の先の左手に、立木観音が安置されている収蔵庫がある。 木造立木観音菩薩像は、高さ5.9…

常陸国分寺・国分尼寺跡

常陸国分寺跡では、昭和44年以降の発掘調査により、南大門・中門・金堂・講堂が南北一直線に並び、中門から金堂にかけては回廊が巡り、七重の塔が回廊の東側に位置していたことが分かった。 この金堂跡も、現在残されている基壇の約4倍の規模をもつことが明…

常陸国分寺跡

国分寺は、天平13年(741)国家鎮護を祈る聖武天皇の命で、国分尼寺とともに国ごとにおかれた僧寺である。常陸国分寺は、天平15年に起工し、天平勝宝4年(752)に建立された。常陸の守は従三位宮内卿、百済の王敬福が任命された。常陸国分寺は最勝王経10部…

石岡の陣屋門

石岡小学校から市民会館にかけての一帯が常陸国衙跡と推定されている。南北朝時代の正平元年(1346)ここに大掾詮国(だいじょうあきくに)により府中城が築かれた。常陸大掾氏は、常陸平氏本宗の家系で、府中城を拠点に勢力を誇ったが、天正18年(1590)佐…

常陸国総社宮、本殿

常陸国総社宮の境内中央から拝殿に向かって右側には、日本武尊の腰掛石がある。東国平定の際、この地に立ち寄り、この石に腰掛けたという。永享12年(1440)には、太田道灌が陸奥下向の途次、当社に参籠し、武運長久を祈願して次の和歌を詠んだ。総社宮には…

常陸国総社宮、拝殿

昨年12月上旬に、茨城県中央にある石岡市からつくば市・笠間市にかけて、一泊の史跡巡りに出かけた。 最初に着いたのは、石岡市の常陸国総社宮である。古代、常陸国府は現在の石岡市に置かれ、常陸国衙は国内11郡を総括する役所であった。国衙の新任の国司…

偕楽園の東に接している常磐神社は、2代藩主徳川光圀(義公)、9代藩主徳川斉昭(烈公)を祀る神社で、明治7年(1874) に梅林の一部を境内として社殿が完成した。 斉昭が国旗を日の丸に定めたとして、国旗制定祈年祭を神事としている。戦災によってほとん…

好文亭の塗縁から東を眺めると、大きな左近の桜の木の陰に梅まつりの本部が見える。左には梅林がわずかに見える。 見晴広場にある左近の桜は、仁孝天皇皇女登美子が斉昭に降嫁した際、京都御所紫宸殿から植えられたものだが、後に枯死したため昭和38年にあ…

偕楽園も東日本大震災では大きな被害を受けた。好文亭でも内外の土壁が剥離、落下したほか、ふすまや雨戸などの建具も損傷したという。 復旧工事に伴い順次開園区域を拡大し、24年2月の梅まつり直前に全面復旧し、好文亭の公開も再開したばかりである。こ…

偕楽園は名園として名高く、日本三公園の一つに数えられている。その名称は、中国の古典である「孟子」の「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」という一節からとったもので、藩主のためだけでなく家臣や庶民の遊園にも供された。簡素な芝前門(し…

今年の梅の開花は大幅に遅れ、偕楽園開園170周年記念水戸の梅まつりも終りに近づいた3月中旬になってようやく満開に近くなってきた。 駐車場はどこも混雑していたが、なんとか桜山駐車場の一番奥に止めることができた。梅桜橋を渡って偕楽園に向かう。 …

主祭神の大己貴命(おおなむちのみこと)は、大国主命などの別名をもつ神々の中でも中心的な位置を占める神で、記紀神話ではスサノオの子または子孫とされ、国造りを行った。 本殿は、一間社流造茅葺きである。本殿、拝殿は、元禄年間に水戸藩主徳川綱條によ…

大洗磯前神社は、酒列磯前神社と対になっているのだが、一回りも二回りも大きい。 県道を跨いで建っている、大きな一の鳥居をくぐって小高い駐車場に上ると、神門前の階段下の道路脇に二の鳥居と海が見下ろせる。 磯前神社の二神降臨の地を神磯といい、海上…