半坪ビオトープの日記

稲田神社


出雲大社常陸分社から少し東に進むと、笠間市稲田(常陸国新治郡)に稲田神社がある。
創祀年代は不詳だが、続日本紀によると、遅くとも延暦16 年(797)には創建されていたと見られる。出雲国造と同祖であった新治国造が奉斎した神社で、延喜式名神大社の稲田神社に比定されている。

祭神は、奇(くし)稲田姫之命(櫛名田比売)であるが、延喜式神名帳に記載された神社の中では唯一、単独で主祭神として祀られている。櫛名田比売は、出雲の八岐大蛇退治の神話で重要な位置を占める。足名椎(あしなづち)・手名椎夫婦の娘であり、須佐之男命が八岐大蛇を退治した後に妻となった姫神である。

八岐大蛇に追われた際、茶の根につまずき、松葉で目を痛めたとの伝えがあるため、神社や屋敷に茶や松は植えず、正月の門松も飾らないしきたりがあるという。
常陸にはこの八岐大蛇退治の伝説のほかにも、出雲神話と同様の伝説がいくつもあり、出雲族がこの地に移住したことを物語ると考えられている。
神社の北西300m、稲田山の中腹に稲田姫が降臨したという本宮がある。中世には領主であった笠間氏の庇護を受け広大な土地を所有していたが、中世末期の二度の火災により衰退したという。現在の社殿は、弘化5年(1848)の再建とされる。

江戸時代の稲田姫神社縁起によると、「邑長武持という人物の童が近くの好井で水を汲もうとすると美女が現れた。童は不思議に思いすぐに家の主人に知らせ、見てみると、容姿端麗の貴人に見受けられた。主人がその美女に名を尋ねると『吾は素戔鳴之尊の妃、奇稲田姫である。汝は昔、吾に仕えた者の子孫である。ここに、吾が父母の宮、夫婦の宮を営み、好井の水と田の稲を以て酒飯を作り、祀るように』との神託をした。主人は驚いて社殿を造り、神霊を鎮斎した。さらに水田を供し、これを稲田田供村と名付けた」とある。

この神託の伝説から、境内には「父母の宮」(母神=手摩乳命・手摩乳神社、父神=足名椎命・脚摩乳神社)と「夫婦の宮」(夫神、素戔鳴之尊・八雲神社)の摂社があり、稲田神社を含め「四宇の神籬(ひもろぎ)」として重視されている。これが手摩乳神社である。

社宝として、徳川光圀が元禄11年(1698)に、天下太平と将軍家福寿増長を祈願して奉納した四神旗が、県文化財として県立歴史館に寄託されている。社殿左手には、境内社の小さい秋葉神社がある。

こちらは、小さい境内社の稲荷神社である。境内社の屋根が青いのが特徴である。

拝殿の裏手には、垣に囲まれて流造の本殿がある。さらに稲田神社の裏手には、場所が分かりづらいといわれるが、奥の院があるという。

拝殿右手には、比較的大きい境内社八雲神社がある。

こちらの小さい境内社は、脚摩乳神社である。