半坪ビオトープの日記

西念寺


笠間市親鸞の縁の地といえば、浄土真宗別格本山である、稲田山西念寺である。建永2年(1207)法然の吉水教団門下の親鸞は承元の法難により流罪となり、越後国国府に配流された。建暦元年(1211)に赦免の宣旨が下がった後も2年半ほど越後に留まった。建保2年(1214)に常陸国稲田の領主であった稲田九郎頼重の招きに応じてこの地に草庵を結び、「稲田の草庵」と呼ばれる。そのとき親鸞は42歳であった。
茅葺の山門は、室町時代初期の頃の建立である。山門右手前には、北条時頼の歌碑がある。
いやたかき鷲の峯間に説く法を 昔ながらにここに移して  北条時頼

35歳からの越後流寓時代も、恵信尼と結婚し、子(次男)の信蓮房が生まれたが、恵信尼の実家三善氏は、越後の国府近郊の豪族であったというから、親鸞も多少は余裕を与えられたであろうと推測されている。三善氏は常陸にも飛び地を所領していたという説もあり、稲田への移住にも関与があったと考えられている。
この草庵を中心に東国における親鸞による布教は、帰京するまで約20年間にわたった。その間に「教行信証」の製作を開始し、元仁元年(1224)には草稿本が完成したと伝えられている。

西念寺初世・頼重房教養(稲田九郎頼重)が、草庵を念仏道場として受けたのを開基とし、第四世・宗慶が嘉元2年(1304)寺格を得たのが創建とされる。
本堂内陣中央の須弥壇上の宮殿内に本尊阿弥陀如来立像を安置し、内陣より向って右側の本間壇上に「宗祖親鸞聖人御影像」、左側の本間壇上に「恵信尼公御影像」を安置する。
本尊の阿弥陀如来像は、慶長2年(1597)の宇都宮氏断絶に際して城内より持ち出され、後に遠縁にあたる西念寺に寄贈されたと伝わる。
享保6年(1721)に建立された旧本堂は、天狗党の乱の余波で明治4年に焼失した。仮本堂を経て、現在の本堂は平成7年に再建された。

親鸞が布教する前に、関東一円には旧仏教が深く広く根をおろしていたので、親鸞の布教活動も平易ではなかった。山伏の弁円も幾度か命を狙ったが、親鸞に接して回心し、親鸞の弟子になった。それを喜んだ笠間時朝が植えた桜が「弁円回心の桜」として残されている。とはいってもこの通り、明治4年の本堂火災で類焼して根元だけ残っているに過ぎない。
弁円の詠歌が記されている。
「あだとなりし弓矢も今は投げ捨てて 西に入るさの山の端の月」
「山もやま道も昔に変らねど 変わりはてたるわがこころかな」

山門を入って右手にある鐘楼堂は、なんとなくみすぼらしい。現在、新しい鐘楼堂が建築中という。

左にあるのは、「御杖杉」という。親鸞がこの地に草庵を結んだとき、「衆生化益の宿願を達せばやと 御杖杉を深く差し給いしところ 不思議にも根芽を生じ大木となれり。明治4年 本堂焼失のとき類焼したるは惜しむべきことなり」とある。
「老いの身のこれぞ力のしるしとぞ つきとめにけり庭の杖すぎ」    水戸光圀公詠歌
右にあるのは、「神原の井戸」という。案内板を略すと、
鹿島大明神が白髪の老翁となりて親鸞の弟子となり、法名を釈信海と賜う。老翁喜びのあまり鹿島七つ井の一つを献ぜばやと大地を叩き給いしところ、忽然と清水湧き出でたり。光圀公いわれを聞き喜びあまり御影石の井筒を寄進せり。」