半坪ビオトープの日記

浄興寺


上越市高田駅の西側に寺町寺院群がある。浄土真宗の寺院を中心に、真言宗曹洞宗日蓮宗・浄土宗・時宗の66の寺院が、南北約2kmにわたって集まっている。その中央の西はずれに、浄土真宗の浄興寺がある。真宗浄興寺派本山で、山号歓喜踊躍山(かんぎゆやくざん)という。正式な寺号は、浄土真宗興行寺(こうぎょうじ)という。
親鸞が開いた常陸国稲田の草庵が草創とされ、元仁元年(1224)草庵を興行寺と改めた年を創建とする。以後、焼失と移転を繰り返し、永禄10年(1567)上杉謙信の招きで越後春日山に移り、高田築城とともに現在地に移った。最盛期には越後・信濃・出羽の三国に約90ヵ寺の末寺を従えた。東本願寺派の寺院として栄えたが、昭和26年に浄興寺派として独立し本山となった。

山門を入ると参道の両側に塔頭が並び、境内正面に本堂、左に鐘楼・経蔵、右に拝堂・廟所・宝物館・庫裡などが立ち並ぶ。
延宝7年(1679)頃建立の本堂は、三間向拝付きの入母屋造杮葺き、間口28.2m、奥行27.8mと大規模で、県内の真宗寺院としては最大・最古であり、国の重文に指定されている。

身舎部の柱は全て円柱で、絵様の入った虹梁や、彫刻が施された蟇股などを多く用いるなど江戸時代前期の建築物としては先駆的な意匠・形式で構成されている。とりわけ妻飾りの懸魚の細かい装飾や大柄の二重虹梁大瓶束は他に余り例を見ない。

本尊として室町時代中期の作とされる来迎形の木造阿弥陀如来立像を安置する。脇侍は置かないが親鸞の真筆とされる九字名号、六字名号を脇掛とする。
本堂内には欄間7枚、蟇股92の彫刻が荘厳に施されている。

境内入口左には、上杉謙信が寄進したという梵鐘が釣られた鐘楼堂が建っている。現在、当時の梵鐘は宝物殿に保管されている。

境内入口右手、鐘楼堂の向いには、聖徳太子を祀る太子堂とその前に「八房の梅」がある。越後親鸞七不思議の一つの「八房の梅」は、塩に漬けた梅を親鸞が植えると芽が出て、一つの花に八つの実を結ぶ梅の木になったという。

寺伝によると、当初の本尊は稲田草庵の太子堂に祀られていた親鸞自作の聖徳太子像であったという。現在、浄興寺の太子堂に祀られているこの像がその時の聖徳太子像で、14世了性の代に本堂の本尊を阿弥陀如来に改めたという。

本堂の右手には、親鸞聖人の頂骨を安置する廟所があり、その手前に拝堂が建っている。

弘長2年(1262)京都で亡くなった親鸞の頂骨は、開闢の地、稲田浄興寺に安置された。その後本願寺歴代門主は、頂骨を分納することを例とし、この本廟には第三代覚如より第二十代達如上人まで納められている。

現在の廟宇は、柏崎の名棟梁篠田宗吉により明治21年に完成している。正面唐門と塀の柱や妻飾りなどの細部まで、花鳥、動物などの精巧な彫刻が施されていて注目に価する。