半坪ビオトープの日記

浄専寺


弥彦神社から約2km北に、かつて修験道霊場として知られた石瀬集落があり、その集落入口に浄専寺がある。浄土真宗大谷派の寺院で、太田山と号する。山門の左手に鐘楼が見える。本堂の屋根の後ろに見える山は、多宝山である。伊夜日子大神の宝器を埋めたと伝えられ、633.8mの山頂には「天香語山尊十宝塚」と刻まれた石碑がある。

江戸時代末期の優れた枯山水式の庭園(中庭)があり、県の名勝に指定されている。

浄専寺は、慶長年代(1596~1614)に堀川庄兵衛と一族が信州水内郡から移住し、寺を創建したと伝えられている。この経蔵は、黄檗版の一切大蔵教並びに大乗の諸妙典を蔵している。天明7年(1787)の創建と記されている。

もとの堂宇は、現在の字藤本ではなく、字敷地の石瀬代官所にあったが、そこから現在地に移転し、本堂や鐘楼、一切経蔵、庫裡書院などが文政元年(1818)に完成している。同時期にできた庭園は、本堂と庫裡書院との間の奥にあり、作者は通称「猫」と呼ばれた三条の美石という庭師とされている。

浄専寺本堂には、親鸞聖人の形見の木造が安置されている。親鸞聖人は承元元年(1207)に越後国府へ配流され、越後に滞在している間に弥彦神社へ参詣したとされている。

その際に滞在した林部家の者が、後に形見として親鸞聖人に彫ってもらった木像があった。
手前にある瓦は、真宗本廟御影堂の瓦である。

木像は「聖人清水」に安置されていたが、明治の廃仏毀釈で破壊される前に、林部家により浄専寺に移された。

その後、傷みの激しかった木像は、平成17年に京都の仏師・松元明慶により修復された。