半坪ビオトープの日記

茨城

由緒記によると、建久2年(1191)源頼朝は神馬33頭神領地寄進社殿修繕を行い、応永29年(1422)水戸城主初代江戸道房より約200年間は江戸氏が修繕にあたり、元禄15年(1702)には水戸藩主三代綱條により隣接する椿山という西方の台地から社地が移…

酒列磯前神社は、天安元年(857)には官社、延喜式神名帳では、酒列薬師菩薩神社として名神大社に列せられている。 現在の社殿は、元禄時の木材・彫刻等を再利用し、昭和9年から国費で改築された。 拝殿入口の上部にある防火のための「懸魚の彫刻」は、「ブ…

平磯海岸に沿う台地には100基を超える三ツ塚古墳群があり、海岸から数キロ離れたところに虎塚古墳がある。平磯海岸の北、磯崎の岬上の台地の上に酒列磯前(さかつらいそさき)神社がある。「文徳天皇実録(879)」によれば、創建は斉衡3年(856)である。中…

水戸から那珂川に沿って太平洋に向かい、アクアワールド大洗の手前で左に折れるとひたちなか市に入る。那珂湊漁港の先の海岸線一帯を平磯海岸と呼ぶ。 天保4年(1833)に水戸藩主徳川斉昭が雄大な景観に感銘し、水戸藩随一の波浪の見所として観濤所の碑を建…

ここに来れば、納豆の起源や水戸納豆が全国的に有名になったわけなどが分かるという、納豆なんでも展示館が水戸駅の北口の近くにある。 大豆を原料にした日本を代表する加工食品である納豆の起源は、遠く弥生時代にあるいは奈良時代に、中国から伝来したと伝…

茨城県立歴史館は、県の歴史に関する資料を収集・保存・公開している。常設展は、県内の歴史を民俗・考古・古代・中世・近代の各部門に分け、豊富な資料やジオラマ、映像などを使って展示・紹介している。 特に興味を引くのは、東日本で最も鮮やかな装飾古墳…

正庁の奥には、藩主の休息所であり諸公子の勉学所だった至善堂がある。ここは奥の御座の間をはじめ4室からなっている。至善堂の名は、徳川斉昭が中国の経書「大学」からとって命名したものである。 第15代将軍慶喜も、父・徳川斉昭の厳しい教育方針で5歳…

正庁の左には武道の試験が行われた対試場がある。その左の三の丸小学校の敷地には、かつて武館や、天文台、医学館があり、当時の調練場を含めた弘道館の面積は、現在の旧県庁舎、県立図書館、三の丸小学校などを含めて、現在の弘道館公園の敷地の約5倍もあ…

旧水戸藩の藩校である弘道館は、徳川斉昭が推進した藩政改革の重要施策の一つとして開設された。建学の精神は、天保9年(1838)に斉昭の名で公表された「弘道館記」に「神儒一致」「忠孝一致」「文武一致」「学問事業一致」「治教一致」の5項目で示された…

今月中旬に水戸とその周辺を巡った。雨天のため予定を大幅に変更して、徳川ミュージアムから見た。正式には彰考館徳川博物館といい、水戸徳川家第13代圀順が徳川家に伝わる古文書、道具類を寄贈して昭和42年に開館した。第一展示室が常設展に、第二・第…

帰りの昼食は、日立市内で評判のフレンチレストラン「デュ・バブレン」でランチコースを頼んだ。 店内にはロートレックやミュシャの絵が掛けられ、落ち着いた雰囲気である。 ここのマダムは、茨城で初めてのソムリエ認定資格者であり、全日本ソムリエコンク…

日立市北部にある伊師浜海岸は、白砂青松の美しい海水浴場のある海岸でアオウミガメの産卵地でもあり、国民休養地ともなっている。 伊師浜海岸の南に続く鵜の岬海岸は、日本唯一の鵜飼いのためのウミウ捕獲場で、国民宿舎「鵜の岬」日帰り温泉施設の「鵜来来…

高萩八幡宮の社殿の背後、左に立つ安良川の爺スギは、高さ35m、幹回り約10m、樹齢約1000年で、大正13年に国の天然記念物に指定されている。 県内第一の古木であり、樹勢が衰えていたため、数年前に先端部を切除して、避雷針を付けている。元は42…

高萩小に隣接する安良川八幡宮の参道は、鬱蒼とそびえ立つ杉の巨木に囲まれていて、長い石段を上り詰めなくてはならない。実際には案内板に従って、車で迂回して社殿脇の駐車場まで上った。 由緒によると、「古より安良川の産土神で、祭神は、応神天皇・日女…

ここ松岡地区は文化の里エリアといい、穂積家住宅からお屋敷通りを経て丹生神社、松岡城趾まで歴史の息づくウォーキングコースがある。 穂積家は、江戸時代から豪農の家柄として地域経済に大きな役割を担い、その活動は農業のほか、酒造業や林業、金融業、製…

5世紀末頃、多珂国(久慈川以北)に朝廷から国造が派遣され、大和政権の勢力下に入った。琵琶墓古墳をはじめとする古墳群の多さから、ここ高萩地方が多珂国の政治の中心と考えられている。鎌倉時代には宇佐美氏が地頭職にあり、室町時代には寺岡氏・里見氏…

磯原温泉の裏手に野口雨情の生家がある。雨情は明治15年(1882)磯原村に父量平、母てるの長男として生まれ英吉と名付けられた。木造瓦葺二階建ての右の家は、明治時代の初めに建てられ、一部が改造されている。二階が雨情の書斎だったところである。 生家…

国道6号沿いの野口雨情生家の数百メートル北に野口雨情記念館がある。ロータリー中央にある野口雨情像の手前にはシャボン玉で遊ぶ子どもの像が建っている。野口雨情は、「七つの子」「赤い靴」「青い眼の人形」「あの町この町」などの童謡をたくさん作詞し…

弟橘媛神社拝殿前の境内に戻る。天妃山の由来を記した説明板の右には、航海安全祈願のため奉納されたものであろうか、古い錨がおかれている。 拝殿の前には西山公腰掛石の碑がある。光圀が腰掛けたというが、観光地にはよくある話である。 拝殿の前の小径を…

新撰組筆頭局長であった芹沢鴨は、養父である下村義次が弟橘媛神社の神官となったため、その後を継ぎ(下村継次)、この弟橘媛神社の神官だった時代があるそうだ。その時期、芹沢鴨の尊王攘夷思想に影響を与えた師が野口正安で、嘉永5年(1852)に吉田松陰…

野口雨情ゆかりの磯原海岸に突き出した三等三角点のある小山は、標高21mの茨城県第二位の低山で、天妃山という。 東日本大震災の津波が押し寄せて堤防を越え、家々を押し壊したためにまだ空き地が散在する磯原温泉から、修復された堤防に沿って天妃山に向…

佐波波地祇神社は初め、大津の澤山(佐波山)に鎮座した。その後、東堂下に移り、さらに現在地に遷座したという。 これは境内社の武田姫稲荷大明神を奉る武田姫稲荷である。朱色の鳥居が華やかである。 こちらは丸徳稲荷神社という。小さな狐の神使いがたく…

福島県の勿来からまた北茨城に戻る。平潟港と五浦海岸の南に大津港がある。江戸時代から水戸藩有数の漁港として栄え、その後もいわし・さば、シラス・コウナゴなどを水揚げしてきた。しかし東日本大震災の津波で漁港を始め壊滅的な打撃を受け、さらに福島第…

冬の鍋料理の定番といえば何と言ってもアンコウ鍋だろう。ここ北茨城の平潟港でのアンコウの水揚げは県内一を誇る。 五浦海岸から平潟港にかけてアンコウ鍋が自慢の店はいくつもあるが、お昼は最も人気のある「船頭料理天心丸」に決めた。 漁船を自ら所有し…

先日、北茨城の五浦海岸から勿来、磯原、高萩の辺りを廻ってきた。 五浦海岸といえば岡倉天心が建てた六角堂が有名だが、東日本大震災の津波によって損壊、消失してしまった。そこで最初に六角堂が見渡せたという五浦岬公園に行った。 展望台を探したが六角…