半坪ビオトープの日記


野口雨情ゆかりの磯原海岸に突き出した三等三角点のある小山は、標高21mの茨城県第二位の低山で、天妃山という。

東日本大震災津波が押し寄せて堤防を越え、家々を押し壊したためにまだ空き地が散在する磯原温泉から、修復された堤防に沿って天妃山に向かうと、正面に鳥居が見える。
弟橘媛神社と書かれた社号標の右に台輪鳥居が建っている。鳥居の左にある石碑は、幕末に石炭を商品化して江戸に送り、常磐炭坑北部地区の開拓者となった、神永喜八の顕彰碑である。

神社には昼なお暗い階段の参道を上っていく。二つ目の階段を上った所には小さな祠がある。右に足尾社と左に産土神社がある。

その先の曲がり角には境内社が二つ祀られている。

なおも少し上ると狭い境内が現れ、質素なお堂のような拝殿と、その廻りにいくつもの小さな境内社が見かけられる。
天妃山は昔、朝日指峯といい、薬師如来を祀っていた。元禄3年(1690)徳川光圀がその像を松山寺に移し、中国の高僧心越禅師が持って来た天妃神を祀り、海の守護神とした。それよりこの山を天妃山という。その後、天保2年(1831)徳川斉昭日本武尊の妃、弟橘媛命を祀り弟橘媛神社と改めた。合祀された天妃神は、中国の媽祖のことで、10世紀後半、北宋時代に実在した女性で、航海の守護神とされる。元世祖の代(1281)には護國明著天妃に封じられた。
昔の朝日指す峯という名は、冬至の頃に朝日が昇る方向に見えるのが花園渓谷にある古社花園神社から見た天妃山で、花園神社の祭りはこの磯原の天妃山と関係があるという。

拝殿の真新しい扁額には、「天妃姫・弟橘媛・雄都嘉神社」と記されている。雄都嘉(おつか)神社は、元は磯原工業団地辺りに鎮座していたものを合祀したそうで、火の神、防火の神として信仰されているという。