半坪ビオトープの日記


磯原温泉の裏手に野口雨情の生家がある。雨情は明治15年(1882)磯原村に父量平、母てるの長男として生まれ英吉と名付けられた。木造瓦葺二階建ての右の家は、明治時代の初めに建てられ、一部が改造されている。二階が雨情の書斎だったところである。
生家は現在も住居になっているため中に入ることはできない。しかし今回の大震災では、屋根瓦がはがれ、一階には津波の水が押し寄せたという。

生家はかつて水戸徳川家藩主の休憩所であり、光圀によって「観海亭」と名付けられ「磯原御殿」ともいわれた名家で、家業は廻船業を営み、父は村長を2期勤めた人望家でもあった。明治30年、雨情は東京に出て叔父の衆議院議員の野口勝一宅に寄宿した。叔父勝一は漢学者、書道の大家でもあり、全国に吉田松陰のことを初めて紹介した人でもあった。

明治37年父の死により帰郷し、家督相続し結婚もした。翌年、処女詩集「枯草」を自費出版するも注目されず、その翌年に北海道で新聞記者として暮らし、石川啄木とも交流した。
大正8年頃より童謡作品の発表を続け、徐々に認められていった。著名な「船頭小唄(原名枯れすすき)」を作詞(作曲は中山晋平)したのも大正8年である。

大正10年には「十五夜お月さん」「七つの子」「赤い靴」「青い眼の人形」などを、翌11年には「黄金虫」「シャボン玉」を、13年には「あの町この町」「波浮の港」と続く。
生家の左隣に「雨情生家の館」という資料館があり、楽譜や直筆の掛け軸をはじめ、貴重な資料が数多く展示されている。

雨情は童謡、童話だけでなく、民謡や校歌なども数多く作った。雨情は常に、民衆の間に歌い継がれてきた童謡や民謡を芸術的な水準にまで高め、民衆の中に生きる芸術として育てたい、という意識を持って全国各地を巡り、詩作活動や講演活動を続けたといえる。