半坪ビオトープの日記


5世紀末頃、多珂国(久慈川以北)に朝廷から国造が派遣され、大和政権の勢力下に入った。琵琶墓古墳をはじめとする古墳群の多さから、ここ高萩地方が多珂国の政治の中心と考えられている。鎌倉時代には宇佐美氏が地頭職にあり、室町時代には寺岡氏・里見氏が追い出されたとの記録がある。安土桃山時代に大塚氏から岩城氏に代わるも関ヶ原で徳川方に見方せず所領は没収された。正保3年(1646)高萩地方は水戸初代藩主徳川頼房の附家老・中山信正の知行地となり明治の大政奉還を迎える。明治元年に松岡藩として水戸藩より独立し、明治4年に松岡県になった後、茨城県に統一された。
高萩市の中心高萩駅の北西にある松岡地区に、茨城県の指定有形文化財である穂積家住宅がある。
穂積家住宅は、江戸時代に建てられた豪農の住宅で、白壁・瓦屋根の長屋門に囲まれた1200坪ほどの敷地に、母屋・土蔵・庭園・池などがある。
何度も増築・改修されているが、現代に残る江戸時代中期の豪農住宅の代表的なものである。
入口の長屋門は、昭和初期の改修で2階部を乗せるなど数回改築がなされているが、城郭の楼門のような外観は類例がなく貴重な建物である。

安永2年(1773)に建てられた主屋は、桁行12間半、梁間6間の建物を中心に、西南部に曲がり部を突出させ、西端にも突出部を造っている。背面の衣装蔵とは渡り廊下でつながっている。

屋根は茅葺で軒付けは数段重ねて葺かれていて、その造りは「五段茅葺中竹節揃角市松模様寄棟造」と呼ばれている。屋根の形状は、正面側に小さな妻を作って入母屋造としているほかは寄棟造となっている。

主屋の中に入ると土間から広間、その奥右には座敷、左に納戸が見える。天井を見ると重厚な小屋梁が頼もしい。

広間から右回りに部屋を見て回ることができる。右の奥にある前座敷とその左の奥座敷である。

奥座敷の手前に納戸があり、その手前の広間の左に食卓室と台所がある。