半坪ビオトープの日記

江渡家住宅、五戸消防団屯所、代官所跡


八戸市の西、五戸川流域には三戸南部氏の家臣たちの城館が数多く築城され、近世には盛岡藩代官所が置かれた。その三戸郡五戸町に江渡家住宅がある。表門は武家屋敷の正門としてよく見かける格式張った門で、真正面のため控柱が確認できないが4本柱で重厚な切妻屋根を支える薬医門と思われる。

江渡家は豪農でありながら、盛岡藩の所給人(在郷武士)として五戸代官所の下級役人も勤めた。多くの田畑を持っていて、天明の大飢饉の際には、飢餓救済事業として自らの住宅を再建させている。住宅は当時の天明5年(1785)頃の建造で、間口12.5間、奥行6間、建坪85坪の寄棟造茅葺。外壁は真壁造り、板張り素地。北正面に玄関を付けている。接客用の本玄関・玄関の間・座敷・奥座敷、仏間、欄間、竿縁天井、せがい造りなど、格式の高さを誇る。江戸時代後期の在郷武士の建物として貴重であり、国の重文に指定されている。屋内には「天明六年」銘の江渡家算額が所蔵されている。

敷地も広く、庭の刈り込みも整えられている。現在でも民家として人が住んでいるため、見学は外観のみとなっている。

五戸市街地の南の道路沿いに五戸町消防団第一分団屯所がある。明治12年(1879)に私設消防団の屯所として建てられ、大正2年(1913)の五戸町大火による焼失後の大正11年(1922)に同じ様式で再建された。縦長窓・半円アーチ窓や下見板張りの外壁を採用し、県南地方の屯所の代表的デザインであるドーム屋根付きの鐘楼を備えている。木造五層建、間口3間半、奥行3間、建坪10.5坪。昭和15年に購入した消防自動車を格納するため、表側が増築され、現在も使用されている。重宝建造物として、県の文化財に指定されている。

消防団屯所のすぐ西隣りに稲荷神社がある。創建は享保18年(1733)当時の五戸代官所の代官を務めた木村杢氏が伏見稲荷大社の分霊を勧請したのが始まりと伝えられている。

当初より神仏混合し、祭祀は別当である福蔵院が担い、天明8年(1788)には稲荷神社の氏子とともに京都に上り、摂津守荷田祢信邦から詔勅を拝受し正一位に列している。明治初頭の神仏分離令により仏式が廃され、神社として独立し郷社に列している。明治40年(1907)に幣帛供進神社、昭和19年(1944)に神饌幣帛料供進社に指定される。
拝殿は、入母屋造銅板葺平入、梁間3間、桁行6間、正面1間向拝付。

正面の扁額に書かれた「正一位」は、建久5年(1195)に稲荷神社の総本社である伏見稲荷大社勧請の神体に「正一位」の神階を書き加えることが許されたため、勧請を受けた全国の稲荷神社が「正一位」を名乗り、「正一位」は稲荷神社の異称のようになっているので、特別のことではない。祭神は倉稲魂命を祀る。拝殿の外壁は真壁造、板張、弁柄色塗り仕上げ、向拝木鼻には獅子、虹梁上には神狐の彫刻が施されている。本殿は一間社流造、鉄板葺。境内には青面金剛像と庚申塔などがあり、わずかに神仏混合の名残が見受けられる。

五戸市街地中央の西に五戸代官所跡がある。五戸代官は天正19年(1591)から元禄10年(1697)までの100年以上の間、木村氏が代々世襲した。代官所は木村氏の居館(五戸館跡)でもあり、文禄4年(1595)頃、領国支配の強化に乗り出した三戸南部氏の当主・南部信直が、木村杢之助秀勝に命じて、代官所周辺の町場とともに造成させたものである。五戸代官所管轄地域は、五戸川・奥入瀬川流域の五戸通36ヶ村(約1万7500石)であり、代官所には代官2人のほか下役・帳付・野馬別当・牛馬役などが置かれた。代官所は明治2年に一時斗南藩の藩庁となり、その後は県庁五戸庁舎、五戸小学校、旧五戸町役場が置かれた。

現在、「歴史みらいパーク」の中に、文久年間(1861~63)頃に再建されたほかの代官所の平面図を参考に、平成10年に復元されている。建物は木造寄棟造平屋建、茅葺平入。内部には式台付玄関、玄関の間、本座敷、御用の間、台所、水屋などがある。外壁は真壁造、板張、素地ときわめて質素な造りとなっている。

代官所の建物の手前に代官所の表門が移築されている。文久2年(1862)の建造で、代官所が廃されると民間に払い下げられたが、近年町に寄贈され、現在地に再移転されて五戸町指定有形文化財になっている。

五戸代官所がある「歴史みらいパーク」は、生涯学習と憩いの場として平成10年にオープンした公園で、園内には、YS−11機の生みの親である木村秀政博士の記念コーナーを併設した、豪華な造りの五戸町図書館も建てられている。