半坪ビオトープの日記

斗賀神社


三戸郡五戸町の南に位置する三戸郡南部町は、南部藩の発祥の地であり、南部氏ゆかりの史跡が多数存在する。その南部町を通る「青い森鉄道剣吉駅の西北に、古い歴史を誇る斗賀神社がある。

境内左側の撞鐘堂は、昭和51年に竣工したものだが、そこには第二次世界大戦中の供出を免れた、八戸藩4代藩主南部広信の寄進である「享保4年(1719)」銘の釣鐘が掛けられている。

宝亀年間(770~80)二条関白太政大臣藤原有家因幡守平秋朝の讒言により太政大臣の座を追われ、都落ちして九戸郡侍浜に到着、有家村に居住した後、斗賀村に移り生涯を閉じた。死後、無罪が判明。大同2年(807)坂上田村麻呂(将軍田村利仁との説あり)が勅使を奉じ、斗賀の里に霊現山(よぎさん)新禅寺を創建、十一面観音を安置したという。

斗賀神社は、八戸地方から南部地方に広がる糠部三十三観音の第16番札所ともなっていて、神仏分離以前は、霊現山新禅寺と称し、霊現観音、霊現堂とも呼ばれていた。そのため扁額には、霊現山と寺院の山号が掲げられている。
当社には南朝の年号である「正平二十一年(1366)」銘の県内最古の鰐口が保管されている。南朝年号をもつ遺物が少ない青森県にとって貴重な史料とされる。

神仏分離で斗賀神社と改称し、明治6年(1873)に村社に列格される。そのためであろう、拝殿内には「霊現宮」と書かれ、祭神として伊邪那岐命、月夜見命、猿田彦命を祀っている。

斗賀神社の脇に、裏山にある十和田神社への参道の登り口がある。

その十和田神社は、南祖坊の生誕の地といわれている。南祖坊は、八郎潟の八郎太郎伝説と関わりがある。十和田山南祖法師(南祖坊)は、関白藤原是実嫡男是行の子として斗賀村で生まれ、紀州熊野で修行を終えた際、権現様に鉄の草鞋を授かり「これを履いて諸国を巡り、草履が切れた所を住処とせよ」とのお告げを受けた。諸国を巡った南祖坊が十和田湖に着いたとき草履が切れた。そこを永住の地と喜んだとき、十和田湖の主となっていた八郎太郎が現れ、南祖坊との激しい戦いが始まった。七日七晩の凄まじい戦いの末、法華経の力で戦いに勝った南祖坊は十和田湖の主となり、青龍権現として祀られた。敗れた八郎太郎は、鹿角の里も追われ、米代川を下り、七座(ななくら)の天神様と力比べをしたが敗れてさらに川を下り、大地が割れてできた八郎潟の主になったという。
神社の北の山林の中に南祖坊が生まれた際、産湯として使用したとか、願をかけたとか伝えられる池があり、龍神宮が祀られ十和田山として信仰されている。