半坪ビオトープの日記

剣吉諏訪神社


斗賀神社から剣吉駅に戻って南へ200mほど行くと、諏訪神社がある。南部町には諏訪神社が三つほどあるので、剣吉諏訪神社とも呼ばれる。神社のすぐ北にある剣吉小学校は、かつての北氏の剣吉館(剣吉城)の趾である高台に建っている。学校裏の山中には堀や土塁が残り、三戸城東北方面の守りとして馬淵川対岸の工藤氏(下名久井館)、東氏(上名久井館)を押さえる要害の地であり、重要な位置を占めていた。北氏は三戸南部氏の庶家で盛岡藩士。元は剣吉氏といい、南部氏の居城・三戸城の北に居館(剣吉城)を有していたため北氏と呼ばれるようになった。

諏訪神社には、剣吉諏訪神社神楽が伝わっている。明和8年(1771)に諏訪神社の神輿を京都で作らせた際、世話人・村井市右衛門が京都から人を招いてサギリ(商宮津)、神楽、鹿踊りの三つの神事芸能を伝承させたといい、翌9年までに用具などを整え終わったという記録が残っている。神楽は朱塗りの大きな獅子頭、それに大きく広い幕が付いている。

拝殿入り口に架けられた虹梁は太くがっしりとして、木鼻の獅子や獏の彫刻も豪快である。虹梁側面の浮き彫りも虹梁上の彫刻も他に例を見ないほど激しい動きを示していて力強い。

諏訪神社の祭神は、建御名方命を祀る。坂上田村麻呂が境内の池で剣を磨いたという伝説が残り、「剣吉」の地名も、池の水が清く澄んでいて「刀剣を磨くに吉(よし)」といわれたことに由来するという。

毎年9月8日から10日までの3日間、剣吉地区で開催される「名川秋まつり」では、諏訪神社の神楽に続き、鹿踊り、杵舞、虎舞、神輿などの郷土芸能や、山車が加わっての行列が町を練り歩く。山車の上では珍しい南部手踊りが披露される。
2月6〜7日には、南部地方えんぶりが剣吉諏訪神社でも行われる。南部藩発祥と同時期といわれるほど起源が古く、田植え作業を歌と踊りで表現し、農具の「朳(えぶり)」に因み「えんぶり」と呼ばれるようになったという。南部町内のえんぶりは摺りのテンポが速く動きが激しい「どうさい」系で、烏帽子をかぶった太夫達は音頭とりの唄に合わせて勇壮な踊りを披露する。南部地方の冬の伝統行事で、国の重要無形民俗文化財に指定されている。

社殿の脇には小さな鳥居があり、小さな社が祀られている。

よく見ると神使の狐が認められたので、稲荷神社とわかる。

社殿の左裏手には、小さな祠が多数祀られている。

諏訪神社のすぐ西隣には、曹洞宗の陽広寺がある。南部氏最大の功臣・北信愛(松斎)の開基といわれる。北信愛(のぶちか)は、三戸南部氏一族の武将であった父・致愛(むねちか)の死後、永禄年中(1558~69)に剣吉城の後を継ぎ、物事を恐れず智謀に優れ、武術では特に弓が優れていたという。境内には、剣吉生まれで南部手踊りの創始者とされる、栗山由太郎への報恩碑が建てられている。