半坪ビオトープの日記

法光寺、本堂


南部町の南、三戸町との境に名久井岳がある。標高615mながら、頂上に三角点があり、端正な山容から南部小富士と呼ばれている。古くから霊峰山として人々に信仰されており、麓には法光寺、恵光院、野瀬観音が建立されている。

名久井岳の東麓に位置する法光寺の参道には、延宝4年(1676)に住持の風山慶門や修行僧らが般若心経を唱えながら手植えしたといわれる千本松並木や、推定樹齢1000年といわれる爺杉が残り、「日本名松百選」に選定され、県の天然記念物にも指定されている。最初は427本、最大1000本以上あった赤松も、現在は風害や伐採により激減し、2代目も樹高20mに達している。

簡素な月見橋の右手には蓮の池が広がり、遠州流庭園の下庭がある。ツツジの植栽が多く、6月上旬には見頃となり、境内が華やかになる。

石段を上がると山門が建っている。山門は吹き抜けの唐門様式だが、崩れそうなほど古く、幾本もの材木で補強されていた。虹梁上の蟇股にあたる透かし彫りの彫刻は龍であろうか、極めて躍動的で大きい。兎の毛通しの鶴や、木鼻の獅子・獏の彫刻も立体的である。天井を見上げると、不鮮明ながら天井画が描かれ、長押に架けられた棚には十六羅漢らしき人形が並べられていた。

曹洞宗の白華山法光寺は、鎌倉幕府5代執権・北条時頼が弘安3年(1280)に開基したとされる。北条時頼がこの地方を訪れた際、名久井岳の美しさに魅入られ登った帰り道、山の中腹にあった観音寺に一晩の宿を請いたところ住職の桂竺法印に断られ、やむなく山奥の別の庵寺に宿を求めた。夢想軒の庵主である玉蜂捐城(えんじょう)和尚は、有り合わせの品ながら心からのもてなしをした。時頼は翌朝、自分の扇の表に「壱千石名久井通り右永代可令知行也」と書き残した。扇子の裏には「水結ぶ名久井が岳を眺むれば海より出でて山に入る月」西明寺入道時頼花押と一首詠んでいる。翌年鎌倉の時頼から宮野玄蕃、板垣監物を普請奉行として派遣し、観音寺は命令をもって廃止し、その跡に、世話になったお礼として七堂伽藍を建て、白華法光寺が創建された。開基は時頼、開山は捐城和尚とされる。本堂は軒唐破風付の入母屋造で、床下を高くした二階建て風である。向拝虹梁上の彫刻は龍虎で、向拝柱も雲龍が巻きつく彫刻が施されている。

時頼廻国伝説を残しているが、各地に残る時頼の廻国伝説は、北条得宗家の勢力拡大を物語るものといわれる。本尊として釈迦牟尼仏を安置している。

山号は山門下の池の白蓮華に由来して「白華山」となっている。建物は明治11年に焼失したが、後年再建されている。ここでは座禅体験や住職による法話も聞くことができる。法光寺13世不慧和尚が宝永3年(1706)に書いた「白華山法光禅寺諸来歴記」には、法光寺に一泊した弁慶が寺宛に出した宿泊の礼状が保管されていると記載されていたが、残念ながら明治年間の火災で焼失したという。

本堂内陣の欄間には随所に手の込んだ彫刻がはめ込まれている。これは普賢菩薩観音菩薩の彫刻である。

様々な菩薩などの欄間の彫刻だけでなく、襖絵も中国の山水画らしく丁寧に描かれている。

本堂の左手には位牌堂が建ち、本堂左手前にある鐘楼堂は、珍しく渡り廊下で繋がれ前に突き出ている。昭和58年に再建された鐘楼堂には、袴腰が付き、高欄を廻らせ、二重の扇垂木が重厚感を醸し出している。

鐘楼堂に簡単に渡っていけるので、ついつい撞きたくなってしまうが、我慢して鐘楼を間近に見ておく。

位牌堂の中央には、観音像と思われる仏像が安置され、三界万霊等と書かれた位牌が立てられている。三界全ての精霊を供養するための位牌である。