早池峰神社と岳妙泉寺跡の隣に大迫郷土文化保存伝習館(早池峰岳神楽伝承館)があり、岳地区と大償地区に伝わる神楽にまつわる文化遺産を展示解説している。早池峰岳神楽は、往古の時代、早池峰山が信仰の山として開山された後、中世以降に岳妙泉寺(早池峰神社の前身)の祭祀を預かる「岳六坊」と呼ばれる山伏たちによって代々伝えられてきた。慶長12年(1607)領主南部利直より妙泉寺領百五十石を寄進された時、境内附地として早池峰三十六ヶ山を与えられた。
岳新山堂、薬師、舞殿、大鳥居、客殿は、慶長15年(1610)より17年まで、南部利直の命により造営された。要害普請もされ、非常時には藩主の隠れ城(避難場所)の役割も担っていた。客殿や庫裡など岳妙泉寺境内の規模が、新山堂より大きかったことがよくわかる。六坊や下禰宜の家も認められて興味深い。
藩政時代には「妙泉寺」という寺は、盛岡・大迫・遠野の3ヶ所に存在した。公的記録では「(盛岡)妙泉寺」、大迫は「嶽妙泉寺」または「稗貫妙泉寺」、遠野は「遠野妙泉寺」と記している。嶽妙泉寺と盛岡の妙泉寺は本寺と宿寺との関係で、住職は嶽妙泉寺を本所とした。盛岡城の南東・巽の方向に聳える早池峰山は、早池峰大権現を祀る盛岡藩の祈願所であった。
山伏の衣装の右に並ぶ妙泉寺の仏像は、四天王立像と延命地蔵尊菩薩像。背後に掲げられた大きな額は、妙泉池生寺の扁額。妙泉池生寺は、嶽妙泉寺の最も中心となる建物で、慶長15年から17年にかけて南部利直により新山宮(現在の早池峰神社)とともに建立されたが、享保18年(1733)から20年にかけて建替えされた。その際、新たな扁額を揮毫したのは、当時盛岡藩随一の書家・猿橋文饒。文饒は、藩の命により江戸で能書家の佐々木文山の門人となり、孟魯軒の筆法を学んで筆花堂文饒と号した。この扁額は文饒の作風を知る上で非常に貴重とされる。
円性阿闍梨による嶽妙泉寺の開山年次は、正安2年(1300)や正中2年(1325)など諸説あるが、その前に伝承として、宝治元年(1247)快賢が東根嶽の霊威を感じ、山麓に一寺を建立して河原ノ坊と号し、新山宮・仁王門を建立し、山頂にも大宮と本宮の二社を建立とされる。その後、江戸時代を通じて神仏混合の時代が続くが、総じて嶽妙泉寺のもとに新山宮もあったと考えられる。それが明治維新の新政府は慶応4年(1868)3月に「神仏判然令(神仏分離令)」を発布し、修験道や権現の名称も禁止された。明治2年には早池峰山大権現(新山宮)を早池峰神社に改称し、明治3年に圓能が大澤廣と名を改めて神職となった。その際の神祇役所に出した嘆願書が残されている。嶽妙泉寺の住職・良識(31世法印圓能)は、早池峰大権現別当寺である妙泉寺の権現号を止め、新山宮を早池峰神社と改称し、良識も復飾して大澤廣と名乗り、神官として勤める旨を許可願いたい、というものである。明治維新の神仏分離・廃仏毀釈の具体的資料として興味深いものがある。
大迫郷土文化保存伝習館(早池峰岳神楽伝承館)にも簡素な舞台が設けられ、奉納幕が掲げられ、岳神楽衆が普段の練習に使用している。展示ケースの中にも奉納幕や、神楽に使う鳥兜・扇・かんざし・手平鉦・太鼓・バチ・笛・法螺貝などの道具類が並べられている。
山伏神楽の起源は明らかではないが、早池峰神社に祀られている権現様と呼ばれる獅子頭には、胎内に文禄4年(1595)の年号があり、大償神社別当家には長享2年(1488)銘の神楽文書の写しが伝えられているので、少なくとも500年以上前には行われていたと考えられている。早池峰岳神楽は、岳神楽と大償神楽の総称で、表裏一体を成し、山の神の面では大償神楽は「阿」の形、岳神楽は「吽」の形をしている。現在も両神楽とも約40番の舞を伝え、中には能大成以前の古い舞の形を随所に残すことから、貴重な芸能として国の重要無形民俗文化財第一号に指定され、平成21年にはユネスコ無形文化遺産に登録された。館内では、神楽の映像も常時上映されている。これは岳神楽の式舞の初めに舞う、鶏舞(鳥舞)。鳥兜が珍しい。
舞を大別すると、式舞と式外の舞となり、式舞は、鶏舞・翁舞(白翁の舞)・三番叟(黒翁の舞)・八幡舞・山の神舞・岩戸開きの舞の六曲をいう。式外の舞は、神舞・荒舞・女舞・武士舞・権現舞がある。神舞は、水神・天降り(天孫降臨)・天熊人五穀・天照五穀・恵比寿舞など記紀や風土記の神話を題材とする。面をつけた舞「ネリ」ではじめ、後半の面を外した「クズシ」にうつる。荒舞は諷誦・注連切・竜天など、武士舞は鞍馬・木曽・屋嶋など、女舞は鐘巻(道成寺)・苧環・天女など、最後の権現舞は獅子の姿を借りた神の化身=権現があらゆる禍を退散・調伏させ、安泰を祈祷する舞である。狂言も田植え・猿引きなど多数ある。
神楽面も、猿田彦・天女アメノウズメ・天熊人・注連切・諷誦など多数展示されている。岳神楽も大償神楽も演目にほとんど差がないが、岳神楽は五拍子を基調とし、勇壮で激しく活発な荒舞を得意とし、大償神楽は七拍子を基調とし、緩やかで繊細な女舞を得意とする。
嶽妙泉寺の門前六坊の発祥は定かではないが、慶長以後とされる。山伏であった六坊は、享保14年(1729)京都吉田家より裁許状を得て社家となったが、寛政6年(1794)には山伏だった記憶は失われていたようだ。