半坪ビオトープの日記

大日霊貴神社


台風は北海道に抜けたが、台風一過の晴天とはならずにまだ雨が少し降っているので、秋田駒ヶ岳登山は諦めて、史跡を巡りながら明日の八甲田山登山のために先を急いだ。
鹿角市八幡平に、大日堂舞楽で有名な大日霊貴(おおひるめむち)神社がある。鳥居を潜って杉木立の短い参道を進むと、すぐ左に玉垣に囲まれた境内がある。

鳥居の左にある由緒書きの後ろに隠れている白柱には、菅江真澄の道と書かれている。菅江真澄天明5年(1785)、文化4年(1807)、文政4年(1821)と三度もこの地を訪れている。
また、寛政2年(1790)に訪れた松浦武四郎も「鹿角縁起」に「龍燈の杉」と紹介している。

境内入口には、神仏混合の名残を見せる神社山門が建て替えられている。山門のすぐ左には、御神木の姥杉跡が覆屋に囲われて祀られている。樹齢1500年超といわれ、樹高40mの大杉だったが、昭和40年衰弱枯死した。石川啄木の「鹿角の国を懐ふの歌」では、「逆鉾杉」の大木と詠われている。

山門を潜って境内に入ると、山門のすぐ右側に正安2年(1300)銘の板碑がある。高さ80cm、ややずんぐりした不整五角柱で、三面を碑面とし、阿弥陀如来観音菩薩勢至菩薩阿弥陀三尊の種子(梵字)が彫られているので、三尊石と呼ばれていたという。

大日霊貴(おおひるめむち)神社の創建は古く、継体天皇がこの地域を開拓したダンブリ長者の徳と娘の吉祥姫(継体天皇の后)の御霊を慰めるために建立したのが始まりとされる。その後、元正天皇が養老2年(718)に再建し、その時に大日堂舞楽を伝えたとされている。
社殿は昭和24年に焼失後に再建されたもので、9間4面あり、秋田県の社殿建築では最大級といえ、大日堂とも通称される。

建物は宝形の形式で、拝殿(兼神楽殿)内部が吹き抜けとなり、中央に10尺四方の舞台が設えてあり、大日堂舞楽にふさわしい空間構成がなされている。
大日霊貴(おおひるめむち)とは、天照大神のことを指し、祭神は天照大神・吉祥姫命ほか11柱を祀っている。

大日堂舞楽は養老2年に伝えられてから1300年を数え、秋田県内最古の歴史を持つ。正月2日、大里、小豆沢、長嶺、谷内の4集落から30数人の能衆(舞楽を舞う人)が出て、夜明けに行列を組み、厳寒の中、凍てついた雪道を歩いて大日堂へ向かう。大日堂に着くと、社前で神子舞、神名手舞、権現舞を舞い、その後、殿内に入り、四角い舞台の上で権現舞、駒舞、烏遍舞、鳥舞、五大尊舞、工匠舞、田楽舞などを奉納する。特に五大尊舞は、金剛界大日如来胎蔵界大日如来がダンブリ長者に化身し、それに普賢、八幡、文殊、不動の四大明王が仕えた様を現すとされる。

大日堂舞楽は、国の重要無形民俗文化財に指定されているとともに、平成21年にはユネスコ無形文化遺産に登録されている。

社殿の右手前には、大己貴神社が建っている。大己貴神(おおなむちのかみ=大国主神)を祀っている。まだ夏越の祓での茅の輪が残されている。

社殿の左手前、境内の隅に小さな地蔵堂がある。大日堂で行われる祭りを地元ではザイドウ(祭堂)と呼び、奉納される芸能が大日堂舞楽である。その祭りの日、夜明けに社前で催される修祓の儀や権現舞は、この地蔵堂の前で行われる。

社殿左の石段の上に建つ駒形神社には、「大日尊神馬」の扁額が掲げられ、五ノ宮皇子の乗馬(白馬)を祀っている。

拝殿の裏には幣殿、さらに本殿と格式高く設けられている。幣殿は3間4面、本殿は2間4面である。