半坪ビオトープの日記

伊豆神社、瑞光院


雪祭りとは別に、新野の盆踊りは8月中旬に3晩、夜を徹して行われる。鳴り物を使わずに、唄と手拍子だけで粛々と踊り、最後に旧村境における神送りの儀礼を伴う。それが日本の盆踊りの原型などといわれている。
下伊那南部には、新野の盆踊りと同じように古い形態が今でも多く残されている。旧上村下栗(現、飯田市)、天龍村の坂部・大河内での夏の「かけ踊り」は盆踊りの古い形といわれる。これらの集落では、冬に霜月神楽も行われている。泰阜村温田の夏祭りでは「榑木踊り」が行われる。そこは山村の集落で、米の代わりにサワラの斧割りを年貢として納めていたが、それを榑木(くれき)といい、無事榑木を納められた喜びを伝える踊りという。
太鼓を叩く姿は、阿南町和合の念仏踊りである。菅笠の若衆が太鼓と鉦を打ち鳴らし、庭入りの舞に始まり、竹の棒を持って踊る「ひっちき」で最高潮を迎え、慰霊の和讃で終わる。8月13〜16日まで続く盆の行事で、この念仏踊りも国の重要無形民俗文化財に指定された。

阿南町新野の農村文化伝承センターの南西1km弱にある小高い山の中に、雪祭りが行われる伊豆神社が建っている。参道脇に雪祭りを紹介した折口信夫の碑が立っているのだが、急な石段を避けて、狭い裏道を車で上ったので見逃した。「庭」と呼ばれる境内の広場が、雪祭りの舞台である。
新野の雪祭りは1月14〜15日にかけて伊豆神社で行われる部分がよく知られているが、実際は元旦の「門開きの式」に始まり、13日の「お下がり」で摂社・諏訪神社例祭、14日の「お上り」から伊豆神社の例祭と続く。13日に諏訪神社で「お下り」の後、「お滝入り」という禊をする。14日夕方に「お上り」の行列が諏訪神社を出て、笛と太鼓で囃しながら新野の町内を進み伊豆神社の「庭」に着く。

最初に、拝殿から渡り廊下でつながっている神楽殿にて、「ビンザサラ舞」「論舞」から「順(ずん)の舞」まで「神楽殿の儀」が行われる。庭では祝儀締め・松明立てと庭の行事が行われる。その後、本殿の儀になる。

まず本殿の裏山にある「伽藍様」の祠で、鼓を太鼓代わりにして宣命と順の舞を舞うと、下の本殿の扉が音をたてて開けられ、本殿の修祓式が始まる。伽藍様とは、伊豆権現鎮座以前からの地元の神=氏神産土神)という。
庭で御参宮、代参りの後、本殿で中啓の舞から順の舞が行われ本殿の儀が終わる。庁屋の前で乱声が行われ神の登場を促す。松明に火が灯されて庭の儀が始まり、最初の神「サイホウ」が飛び出し、以下、「鎮めと獅子」まで延々と芸能が繰り広げられる。

伊豆神社本殿の右隣にも社があるが、氏神は伽藍様で本殿の後ろに祀られているので、この社は氏神ではないようだ。

また、拝殿と神楽殿を結ぶ渡り廊下の手前に大きな石碑があるが、これも残念ながら詳細がわからない。

農村文化伝承センターの北東数百mに曹洞宗の瑞光院が建っている。文安2年(1445)この地を領した伊勢平氏の一族・関氏が居住したところで、享禄2年(1529)二代目盛国が創建した名刹である。その建立の際に、開山祝いとして三河振草下田の人たちが来て寺の広庭で踊った。これを見た村人たちが毎年盆祭りに踊るようにしようと、新野の盆踊りが始まったと記録されている。
時間がなく残念ながら省略したが、瑞光院の裏山にあたる新栄山は、奥山の堂に行人様という即身成仏のミイラを祀っていて、行人山とも呼ばれる。阿南町の新野の行人様は、貞享4年(1687)に入定し、名は行順。日本に現存する即身仏16体のうち唯一の禅宗系といわれ、春秋年二回のみ御開帳するという。