半坪ビオトープの日記

文殊堂、庭園


法泉寺の北境内奥の文殊堂は、二代目の絶山和尚が学問所・禅林文庫の鎮守として、慶安元年(1648)に切戸の文殊京都府宮津市)を勧請したと伝えられている。元禄2年に立派なお堂が建てられたが、寛政元年、大正6年と二度の火災に遭い、現在の文殊堂は昭和5年に再建されたものである。

文殊堂の右の柱には、「真正の宗教は絶対正義をその本心」と書かれている。智慧文殊として信仰されているので、堂内には文殊菩薩が祀られているかと思ったが、それらしき仏像は見当たらなかった。

文殊堂の右手に、小さなお堂が建っている。

仔細が分からないので覗いてみると、何やらキツネの焼き物が祀られているので、稲荷神社と思われる。

その右手前には、小さな祠が二つ祀られている。間には「大聖文殊尊」と彫られた石塔が建っている。

境内に入って左側には、九山禅師が京都天龍寺庭園を模して造ったと伝えられる庭園があり、米沢三大名園の一つになっている。

苔むした庭はコブシ、モミ、アカマツ、ユキツバキなどが昔の名残をとどめ、クマザサなどが根元を飾っていて、幽玄な雰囲気を醸し出している。

法泉寺は、元禄3年(1690)四代藩主綱憲の命で法泉寺と改号、定勝の娘亀姫(法泉院)に由来し、上杉家の菩提寺となる。境内の庭園の奥、文殊堂の左奥には上杉家廟所があり、法泉院や梅嶺院(定勝娘・吉良上野介妻)、祥寿院(六代藩主宗憲の母)の墓があるのだが、わからなかった。
上杉家廟所は道路を隔てた本堂の後ろの墓地にあると早合点し探したが、それらしきものは見つからなかった。代わりに見つけたこの五輪塔は、来次出雲守氏秀の墓のようだ。「おもいあまり信ならざる夢をさへ かたり出ぬる空の阿われさ」天明6年(1786)鷹山公が男女百人に一題一首を課した際に詠んだ歌とあるが、来次出雲守氏秀とは戦国時代から江戸初期の武将で主君は上杉景勝だったので、どこかに勘違いがあると思われる。

本堂の近くには、大きな石碑があった。「上杉景勝公三百五十年諱供○碑」と彫られている。○は、羊編に良の字である。