半坪ビオトープの日記

鎌倉・明月院


梅雨入り後の雨上がりの平日に、友と集いて鎌倉・明月院の紫陽花を見て回った。明月院は、長谷寺成就院とともに「鎌倉三大あじさい」と呼ばれる名所で、中でも「あじさい寺」といえば明月院を指すほど一番有名である。シーズン中は平日でも行列ができるというが、たまたま天気予報が雨だったせいで、入口辺りが混む程度で済んだ。
約2500株あるといわれる明月院の紫陽花は、8割以上が日本古来からの品種「ヒメアジサイHydrangea serrata)」で、最も一般的なアジサイ(西洋アジサイ)と比べると花の房が小さく、明月院ブルーと呼ばれるほど花色が上品である。正面入口は混んでいたので左の拝観口から入った。

境内左手奥には北条時頼廟と宝篋印塔の北条時頼墓がある。福源山明月院は、臨済宗建長寺派の寺院で、開基は上杉憲方、開山は密室守厳であり、開創は応永元年(1394)以前とされる。明月院は禅興寺の塔頭だったが、本体の禅興寺は明治初年頃に廃絶し、明月院のみ残った。禅興寺の起源は鎌倉幕府5代執権・北条時頼にまで遡る。時頼は建長5年(1252)中国の大覚禅師(蘭渓道隆)を開山に迎え、日本最初の禅の専門道場・建長寺を創建した。その時頼は別邸に持仏堂を造営し、最明寺と名付けたが、時頼の死後は廃絶していた。息子の時宗蘭渓道隆を開山としてこれを再興し、禅興寺と改名した。

明月院にヒメアジサイを植えたのは、第二次大戦後に参道を整備する物資や人出が足らなかったため、杭の代わりに「手入れが比較的楽だから」との理由によるという。ヒメアジサイは、牧野富太郎博士が昭和3年(1928)に信越地方で植栽されていたこのアジサイを見て、葉が厚く光沢のあるホンアジサイとは明らかに異なり、花が女性的で優美なので姫アジサイと名付け、翌年発表した品種である。最近は四季咲きヒメアジサイという6月から12月まで咲く品種がとりわけ人気があるという。

今では昔ながらのヒメアジサイ以外にも、様々なタイプや品種のアジサイが咲いている。これは「縁取り種」というタイプで、10年ほど前に出始めた「未来」という品種と思われる。

やはり境内中央の参道は、両側にヒメアジサイの花が咲き誇っているので、写真を撮る人々がたくさん立ち止まっていて、通り抜けるのに苦労した。本堂の手前には、須弥山思想がテーマの枯山水庭園がある。奥の石組が須弥山を表し、手前の白砂敷きが大海で、左に鶴島、右に亀島が配されている。ちょうどサツキの花が咲き始めていてとても鮮やかである。

「方丈」の扁額が掲げられている明月院の本堂は、紫陽殿とも呼ばれる。本尊は聖観世音菩薩坐像を祀っている。

本堂裏手に広がる「本堂後庭園」は、普段は本堂の丸窓越しにしか見ることはできないが、初夏の紫陽花・花菖蒲の咲く時期と、晩秋の紅葉の時期だけ、別料金で特別公開される。この風情ある丸窓は、「悟りの窓」とも呼ばれる。

本堂後庭園の3000本のハナショウブ園は、谷の中という自然の地形を利用した落ち着いた雰囲気で、アジサイの最盛期にも比較的静かに庭園散策を楽しめる。

ハナショウブも満開に咲き誇って、雨上がりのためか花がしっとりした潤いを感じさせてくれる。

本堂の左手奥には開山堂が建っている。禅興寺の明月院境内にあった宗猷堂を後に開山堂としたものである。

堂内中央に開山密室守厳の木像、左に最明寺、禅興寺、明月院の歴代住持の位牌が祀られている。

開山堂の左手の崖には、間口約7m、奥行約6m、高さ約3mの鎌倉で最大級のやぐらがある。やぐらの壁面中央には阿弥陀如来像、多宝如来、両側には十六羅漢の浮き彫りが彫られている。やぐら中央には上杉憲方の墓(宝篋印塔)がある。

こちらのアジサイは、「ウズアジサイ」というタイプで、「オタフク」などの品種が知られている。

こちらのアジサイは、「ナデシコ弁」というタイプで、よく見ると萼片にナデシコのようにギザギザの切れ込みが入っている。
この後、鶴岡八幡宮の国宝館で仏像や国宝の墨蹟を見て回り、のんびり稲村ガ崎温泉に浸かり、七里ガ浜でしらす御膳を味わった。