半坪ビオトープの日記

上杉家菩提寺


こちらは杉原常陸介親憲の墓である。上杉麾下十三人衆の一人で、川中島の戦いにて武功を挙げて謙信より賞賛され、越後国北蒲原郡水原を本拠とする水原氏を継ぐことを許され、後に杉原と改名した。

武田家墓所の左側には、門と柵で囲まれた上杉家墓所がある。歴代上杉家藩主の妻子が葬られていて、上杉家廟所とも呼ばれている。ここでも上杉謙信を家祖(初代)とする米沢上杉家では、景勝が二代となり、鷹山が十代となっているのでややこしい。一般に呼ぶ出羽米沢藩の藩主では、初代が景勝で、治憲(鷹山)が九代である。

正面奥にあるのは、鍋島夫人市姫の墓である。松平信濃守勝茂の長女で、徳川家康の養女となり、寛永元年上杉三代定勝に入輿し、寛永12年に逝去した。

こちらは会津夫人媛姫(はるひめ)の墓である。会津若松城保科正之の娘で、承応3年四代綱勝と縁組みし、万治元年に19歳にて逝去した。その6年後には藩主綱勝も夭折した。

こちらが仙洞院の墓である。上杉謙信の姉で、長尾政景に嫁して二代景勝(政景二男)を生んだ。慶長14 年米沢城二の丸にて82歳で逝去した。米沢に林泉寺を建立することに尽力したことから、林泉寺の中興開基と称されている。

こちらは甲州夫人菊姫の墓である。武田信玄の四女で、天正6年二代景勝と縁組みした。非常な賢夫人で、慶長9年に47歳で逝去した。

こちらは十代鷹山(治憲)の側室お豊の方の墓である。五代綱憲の六男勝延を父にし、明和7年30歳で、10歳若い治憲の側室となった。文学詩歌等に秀でていて、正室が32歳で亡き後、正室に代わる賢夫人として名が知られる。
「年ごとに栄えますらん国民も にぎはふ今日の君のめぐみに」麗之

藩主の子で支侯家(分家)となったものの墓もある。これは上杉駿河守勝周の墓である。五代綱憲の四男で、支侯の先祖であり、麻布様と称した。

上杉家墓所の外にもまだ墓がたくさん並んでいる。これは小田切寒松軒の墓である。元禄3年生まれで、9歳で画を学び、長じて九代重定の寵が深かったといわれる。鳥獣花木を好み、造園の名手でもあった。

さらには歴代住職の墓もあった。これは歴代住持の無縫塔である。