半坪ビオトープの日記

林泉寺、直江兼続墓所


上杉神社の南に曹洞宗春日山林泉寺がある。明応5年(1496)越後守護代の長尾能景が、亡父重景を祀るため春日山城上越市)の麓に創建・開基した林泉寺を元とする。上杉氏の転封に伴い、上杉景勝の実母(謙信の姉)仙洞院が、元和3年(1617)に米沢に移転建立した。現在の本堂は、享保17年の火災で焼失後、元文5年(1740)上杉氏八代宗房の時に再建された。常設宝物館には、寺宝として上杉謙信の直筆「もりの番」、九代藩主鷹山の書、謙信少年時代初見の「毘沙門天」、直江兼続の詩「人日」などが展示されている。

本堂裏手には、往時、米沢三名園の随一といわれた、禅寺特有の素朴な庭園がある。

本堂左手の宝物館の左には、吉江常陸介宗信の墓がある。謙信・景勝に仕えた武将で、子の景資や孫の景泰も謙信の旗本として活躍した。

吉江宗信の墓の左の参道の左には、武田家の墓所があり、一番奥に武田大膳太夫信清の墓がある。信玄の六男で、景勝へ嫁いだ菊姫の弟である。天正10年(1582)甲斐国天目山の戦いで織田信長軍に敗れた武田家は滅亡したが、信清は菊姫の縁故により上杉家へ身を寄せた。大きな五輪塔には、「祖師西来意」と一字ずつ刻まれている。

参道の突き当たりには、直江兼続夫婦の墓がある。直江山城守兼続(1560-1619)は、上杉家の重臣として生涯景勝を補佐し、米沢移封後は、米沢城市の建設、荒蕪地の開拓、水利の疎通、産業の開発、学問の興隆等、藩政全般にわたって偉大な足跡を刻んだ。五輪塔を覆う万年堂(塔)の正面にくり抜かれた亀甲形は、直江家の家紋「三盛亀甲花菱紋」を象っている。妻お船の方(1557-1637)は、越後与板の城主直江景綱の娘で、兼続とともに江戸鱗屋敷で逝去後、同じく米沢徳昌寺に葬られ、後に双方とも林泉寺に改葬された。

境内には上杉氏ゆかりの人々の墓も多い。こちらは新貝弥七郎の墓である。吉良善周(吉良上野介の養子)の小姓として江戸へ上り、元禄15 年の赤穂浪士討ち入りの際に浪士と渡り合い討死した。

こちらは鉄孫左衛門泰忠の墓である。黒金家の先祖で、謙信譜代の家臣である。慶長9年の大坂の役に出陣し戦功があったとされる。

こちらは甘粕備後守景継の墓である。越後上田長尾譜代の家臣で、上杉謙信の命により甘粕氏を相続し、酒田、白石の城主となった。だが関ヶ原の時、景継の不在に乗じ伊達政宗により白石城を襲いとられた。

こちらは富所五代伯耆守の墓である。清和天皇の後胤高松左衛門尉是重の弟勝重は、長尾家に仕え軍功があって富所の地を賜る。勝重から五代定重まで伯耆守となり、俗に五代伯耆という。

こちらは侍大将長尾権四郎家の墓である。白井長尾家と呼ばれる長尾家の一族で、憲景の代は上野白井城主だった。