半坪ビオトープの日記

法泉寺、先聖殿


白子神社のすぐ西の堀立川を渡った所に恵日山法泉寺がある。元和4年(1618)上杉景勝を開基として、直江兼続によって創建された臨済宗妙心寺派の寺院で、当初は禅林寺と称した。兼続は那須黒羽の名刹・雲厳寺の九山和尚を呼び寄せ、兼続や足利学校で九山が集めた図書を備え、米沢藩士の子弟を教育するための学問所とした。それは禅林文庫と呼ばれ、その学問の流れや蔵書は上杉鷹山による藩校興譲館へと受継がれ、現在は米沢市の貴重な文化財となっている。そのため法泉寺は米沢の文教の発祥地と呼ばれている。

境内は、道路を挟んで南の寺院・墓地と、北の庭園・文殊堂に分かれている。

北の境内には、あちらこちらに多くの石碑が立っている。これは丸山和尚の石碑である。

こちらの石碑は、寺の普請を担当した兼続が、創建間もない頃の喜びを詠んだ詩碑である。最上段には「文武両金」と彫られている。禅林偶成「錫を卓(た)つ神祠霊地の隣に 講筵(こうえん)平日囂塵(ごうじん)を絶す 禅林寺裏(り)枝々の雪 認めて洛西花園の春と作(な)す」

境内右手に先聖殿が建っている。上杉鷹山天明5年(1785)先君綱憲が建てた学館を再興した。恩師細井平洲は、その藩校を興譲館命名した。鷹山は興譲館聖堂を新たに先聖殿と命名し、自ら扁額を揮毫し奉納した。元治元年(1864)小森沢火事に類焼した後再建されたが、明治21年に移転した際、旧材を用い4分の1に縮小されて改築された。戦後解体されるところを法泉寺二十世克堂禅師の計らいで難を逃れこの地に移した。

文殊堂手前に、上杉敏子夫人の歌碑がある。「日の恵み かがよう庭にいにしへの 君をしのぶと 白梅の咲く」としこ
歌の作者は、上杉家十六代当主の妻敏子夫人で、徳川宗家十七代家正の二女である。

右の大きな石碑は、上杉鷹山の詩碑である。明和7年(1770)法泉寺で盛大に詩会を催したときの七言絶句の漢詩で、詩会の盛事を詠んでいる。その作品は掛軸として法泉寺に保存されている。
左の小さな石碑は、石田三成の供養碑と伝えられている。関ヶ原の戦い後、直江兼続石田三成の遺子を米沢に引き取った。その兼続が死の前年に開いた禅林寺(現法泉寺)に、住職から住職へと語り継がれたのがこの供養碑という。

こちらの石碑は、雲井龍雄の詩碑である。米沢出身の幕末の志士で、儒学者・安井息軒の私塾で桂小五郎らも門下生であった「三計塾」で塾頭を務め、幕末の混乱期に大政奉還実現に向けて活躍した。戊辰戦争では薩長の横暴を非難する漢詩を作成したため米沢で謹慎した。その後、旧幕臣達の帰順を嘆願する活動を政府転覆の謀反とみなされ逮捕されて27歳で処刑された。熱血たぎる漢詩は、自由民権運動家達にも愛読されたという。