半坪ビオトープの日記

白子神社


上杉神社の真北、米沢警察署の左隣に何やら古めかしい白子神社がある。

江戸時代の城下地図より、旧名は白子大明神とわかる。一の鳥居をくぐると左手に小さな末社が祀られているが詳細は分からない。この神社が養蚕に由来するので、蚕菅神社あるいは蚕影神社ではないかと思われる。手前には水分大神が祀られている。水分神(みくまりのかみ)とは、流水の分配を司る神で、灌漑治水を祈る神である。

二の鳥居の両脇には、阿吽の狛犬が構えている。左の吽は玉を押さえている。右の阿は残念ながらほとんど写っていないが、牡丹の花を咥え、仰向けの子狛と遊んでいる。

伝承では和銅5年(712)の創建とされ、米沢で最も歴史の古い神社であり、承平2年(932)に、出羽国国司の小野良春により社殿再建が行われた。社宝として、山形県最古と見られる、その再建当時のものと推定される鬼瓦が所蔵されている。
暦仁元年(1238)に、領主の長井時広により修理されて置賜郡の総鎮守とされ、以後米沢を納めた歴代領主の守護を受けてきた。

上杉家が越後から会津120万石に移封となった際、米沢30万石の城主となった直江兼続も社殿を修造している。上杉鷹山は襲封の際、白子神社に藩の財政改革の誓詞を奉納している。「連年国家衰微し民人相いなずみ(困り)候 因って大倹相行い中興仕り度祈願候 決断もし相怠るにおいては忽ち神罰を蒙るべきもの也」

現在の社殿は、大正6年の大火で類焼した後、大正13年に再建されたものである。拝殿の右手前に弁財天が祀られている。

よく見ると、「白子 市木島姫 弁財天」と書かれている。日本書紀に登場する宗像三女神の一柱である市木嶋姫で、古くから弁財天を祀っていたことが知られる。

古い由緒では、神のお告げによって桑畑に蚕が生じ、桑を食べている光景は雪が降ったように白一色で、やがてその蚕は繭を作った。それによりこの地を白蚕(白子に由来)村と呼び、和銅5年に蚕菅神社を建てて祭神を白蚕名神としたという。古くから門前に市が立ち、米沢の町はこの白子神社の門前町として生まれたとも伝えられている。米沢の鎮守、養蚕の神様、町人町の神様として信仰され、江戸時代後期には各町々から豪華な山車や大勢の囃子連が繰り出す祭も行われた。祭神として、火産霊命、埴山姫命、大宣都姫命の三神を祀っている。拝殿の後ろに離れて建つ本殿は、鰹木を乗せた古式で簡素な神明造りで、瑞垣門と透塀が設けられて、厳かな雰囲気が漂う。