半坪ビオトープの日記

法音寺


上杉家廟所のすぐ手前に八海山法音寺がある。上杉家歴代藩主の菩提寺で、真言宗豊山派の寺院である。ちなみに、真言宗寺院を菩提寺とする大名は、上杉家だけであるという。

境内に入るとすぐ右手の建屋の中に、延命子育聖観世音菩薩が立っている。その左には南無子育地蔵尊が立ち、その間に「米沢西部幼稚園発祥の地」の石碑が建っている。戦後の農地解放政策により経済的基盤を失ったため、僧侶養成から乳幼児教育に自立再生の道を求め、昭和28年に幼稚園、昭和40年に乳児保育所を開設したことに由来すると思われる。

そのすぐ左手には、大きな五輪塔が建っているが、残念ながら由来は分からない。

法音寺は、天平9年(737)聖武天皇の勅命により、越後国魚沼郡の八海山の麓、藤原の里に建立された寺であり、諸国巡視中に越後国飯盛山の麓で病死した藤原政照を弔うため行基菩薩が法相宗の寺を建てたのが始まりと伝えられている。その後、越後国真言宗国分寺兼務を命ぜられ、建久8年(1197)源頼朝の祈願所となり、天正年間に上杉家の帰依寺となって春日山に移された。後に上杉藩が会津、米沢と移封されるに従って米沢城二の丸に建立されたが、明治3年に寛保2年(1742)再建の本堂をこの地に移築した。本尊は、大日如来尊で、上杉家歴代藩主の位牌、秘仏とされる善光寺如来尊、泥足毘沙門天、菅谷不動尊鎌倉時代の仏具である金銅五鈷鈴や金銅五鈷杵などを安置している。

境内には数々の墓がある。こちらの風変わりな形の墓は、直江兼続が考案した万年塔(万年堂)という。家の形をして前面が格子になっており、中に五輪塔が納められている。米沢特有の墓であり、いざという時には持ち運び、戦時のバリケード、火縄銃の銃口にし、洪水の時は土嚢を詰めることも考えていたという。右が中村甚助、左が高野孫兵衛の墓で、間に立つ供養塔に記されたごとく景勝に殉じた武士である。

ここにも万年塔の墓が二つある。その一番右手にあるやや傾いた自然石の墓が、池田成章の墓である。池田成章は、幕末の米沢藩士であり、主君の米沢藩最後の十三代藩主上杉茂憲に終生忠誠を尽くし、大蔵省御用掛にもなった。米沢中学の初代校長、両羽銀行(山形銀行)の初代頭取、山形県議会議長も務めた。

こちらには矢尾板三印の墓がある。矢尾板家とは代々直江家の家老を務める家柄であった。
矢尾板三印(玄春、伯信)は、米沢藩四代藩主上杉綱憲の儒医であり、綱憲の命で米沢藩初の学問所を創設したことで知られる。

背の高い法音寺歴代住職の墓の石塔の左にあるのが、幸寿丸の墓である。「前太平記」や謡曲の「満仲」で知られる幸寿丸は、今から千年前の人。15歳の時、源満仲の第四子、美丈丸が乱暴して父に首をはねられるところ、その身代わりとなって命を捧げた。心を改めて修行を重ね高僧となった美丈丸(源賢)とその兄源頼満(大江山の鬼退治)は、その忠死に感じて、遺骨を善光寺如来尊の御堂に納め供養冥福を祈った。善光寺如来尊が米沢に移るに際し、上杉家廟所内に移っていたが、昭和16年にこの地に安置された。

境内にはこのほかにも上杉茂憲の句碑があるというが見つからなかった。この墓もかなり古くていわれがありそうだが分からない。