半坪ビオトープの日記

大隣寺


二本松神社の約1km西に、曹洞宗の大隣寺がある。丹羽家の菩提寺であるが、二本松少年隊の供養塔などもある。参道入口左手には、ここで戦死した少年隊副隊長の二階堂衛守と隊士の岡山篤次郎両名の石碑がある。

巨邦山大隣寺は、丹羽家初代長秀を弔うために、2代長重が寛永4年(1627)に越前国より融法全祝和尚を招き、白河の地に建立した。3代光重は寛永20年(1643)二本松へ国替となり、大隣寺も二本松に移り二本松藩主歴代菩提寺となった。山門を上った高台の境内は山門跡であり、その先に本堂が構えている。現在の本堂は、文化8年(1811)に大改築されたものだが、戊辰戦争直後には藩主の謹慎所となり、その後二本松藩庁の仮事務所や藩校にも使用された。通常正面にある唐破風が左端にあり、中央には簡素な入口がある。

中央の入口から中を覗いてみたが、内部は暗くてよく見えなかった。

外陣の天上には、歴代の住職が使った籠が3台保管されていた。

山門跡の左手に鐘楼が建っている。明治初期には廃藩置県により寺院の維持が困難になり、山門・鐘楼・僧堂・庫裏などを売却して凌いだというが、平成2年にようやく鐘楼が復興された。

鐘楼の右手には、戊辰戦争戦死者群霊塔が建ち、その両脇に戊辰戦争で戦死した木村銃太郎隊長・二階堂衛守副隊長と14名の二本松少年隊戦死者供養塔がある。

明治初年の戊辰戦争では、二本松藩の主力は白河城攻防戦に出かけていて、兵力を補うために二本松藩の少年達が急遽出陣を命じられた。だが新政府軍と少年隊では大人と子供の戦いで、大壇口の戦いも2時間ほどで完敗した。城内に残る家老丹羽一学、大城代内藤四郎兵衛らはいよいよ最期と城中に火を放ち、討死あるいは自刃して果てた。だが藩主丹羽長国は、すでに米沢に向って避難していた。

少年隊の墓所の右手、本堂の左手奥に、御霊屋が建っている。丹羽家歴代の位牌堂であり、明治4年に改修されている。

御霊屋と本堂の間を左から上っていくと、歴代藩主の御廟や家族墓などが祀られている。これは九代藩主長富の御廟である。

次に内室陰墓と家族墓が並んでいる。内室陰墓とは、墓標の代わりに四角く石を敷いて陰墓としたものである。側室が世子を生み、幕府に正室の子として届け出た際、生母である側室は墓標を建てることが許されなかったためこのようにしたという。

一番奥には歴代藩主の御廟が並んでいる。まず内室陰墓の右手に、左から八代長祥、四代秀延、三代長之、六代高庸の御廟が並んでいる。

さらにその右手、参道の最奥に五代高寛、初代光重、七代長貴の御陵が祀られている。なお、二代長次は、江戸で夏に亡くなったため泉岳寺に埋葬され、今は青山墓地に改葬されている。