半坪ビオトープの日記

妙成寺、五重塔


仁王門をくぐると石段の上に、背の高い五重塔が建っている。五重塔は、仏舎利を祀る仏塔である。元和4年(1618)前田家御用大工坂上越後守嘉紹を棟梁として建立された。

石段を上らず左手に進むと、開山堂が建っている。1間4面の平屋建て、入母屋造平入りの桟瓦葺。延宝5年(1677)に建立され、堂内正面に開山日像の笠塔婆、その左右に2世日乗の笠塔婆(唐歴2年(1380)在銘)・開基柴原法光の笠塔婆(応永33年(1426))、その両側に歴代貫首の供養塔が安置されている。

開山堂の右手には、経堂が建っている。寛文10年(1670)4代藩主前田光高の遺願により建立された。桁行5間、梁間3間、一重寄棟造桟瓦葺。前1間通りを吹放しとし、他は板壁を以て構成、天海版一切経を納める。北陸地方最古(応永22年(1415))の法華経版木を蔵する。

五重塔は、総高34.18m、露盤下まで27.27m、方3間で、屋根は栩(とち)葺である。栩葺の屋根の五重塔としては全国唯一である。相輪は、上から宝珠・竜車・水煙・九輪・請花・伏鉢・露盤によって成る。

五重塔の心柱は直径1m、建物周囲には切目縁を廻らせて擬宝珠高欄付、正面と両側面に5段の木階段を設ける。初重正面唐様の須弥壇があり、羽目板に蓮の彫刻を施した所は室町風といわれる。

境内には当然ながら墓がいくつもある。これは、北前船の豪商、西村屋忠兵衛の墓である。江戸中期以後、西廻り航路が開けて、北前船日本海を行き来した。忠兵衛はこの地方出身者で、北前船で一代で財を成した大坂の豪商である。文政2年(1819)生まれであった。

立て札の右に、加賀騒動大槻伝蔵の墓がある。6代藩主前田吉徳は、小姓上がりの大槻伝蔵を寵用して士に仕立て、遂には累進して禄高3800石を与えるに至る。藩主の死後、たちまち反対派の家老達に睨まれ、藩主謀殺、側室真如院と密通、老女浅尾の置妾説と相次いで罪名が加わって、真如院と浅尾も密殺され、越中五箇山に流され配所において自殺。一族も全て断罪となった。今では研究者により無実とされている。

こちらは中興の祖、第17世妙心院日奠聖人の墓である。氏は栗田、寿福院の甥。当山より身延28世に瑞世し伝を奠と改める。奠師法脈の祖。寛文7年(1667)寂。「石割伝師」とて七面山後方数十町の田圃を開拓するにあたり、用水を通すために大岩盤を法力を以て打ち割ったという。

こちらは3代藩主前田利常の長女、浩妙院殿の墓である。亀鶴姫という。母方の祖父将軍秀忠の養女となり津山藩主森忠広に政略結婚のため嫁いだが、18歳で祖母の寿福院より先に亡くなった。

こちらは3代藩主前田利常の生母、寿福院殿の墓である。前田利家の側室の寿福院(千代、千代保)は、熱心な法華の信者だった。2代藩主利長(1562~1614)は男子が無かったこともあり、1605年に歳の離れた異母弟の利常(利家56歳の時の子)に家督を譲った。利家の側室で日陰の身であった千代は一躍3代藩主利常の生母となり脚光を浴びる。妙成寺は慶長8年(1603)寿福院の帰依を受けて菩提寺と定められた。元和4年(1618)に五重塔番神堂を建立し、寿福院が寛永8年(1631)に死去すると、その菩提寺として三光堂、祖師堂、仁王門、鐘楼などが造営された。