半坪ビオトープの日記

東光寺、毛利家墓所


東光寺は萩藩3代藩主毛利吉就が元禄4年(1691)に建立した。吉就の死後、ここを墓所として毛利家の菩提寺となった。
毛利家墓所入り口に、元治甲子殉難烈士墓所がある。元治元年(1864)京都の禁門の変により幕府への謝罪のため、岩国で自刃した福原元福、徳山で自刃した益田親施国司親相の3家老。反対派により萩野山獄で処刑された宍戸真澂、前田孫右衛門、毛利登人、大和弥八郎、松島剛蔵、佐久間左兵衛、中村九郎、楢崎弥八郎、竹内正兵衛、山田亦介、渡辺内蔵太ら十一士。俗論党のために萩で自刃を命ぜられた清水清太郎。幕府の萩征伐の起因の責任を感じて山口で自刃した周布政之助。これら身をもって難に殉じた藩士のために、明治29年(1896)に建てられた慰霊墓所である。さらに選鋒隊によって暗殺された藩主の使者3名、桜井三木三、香川半助、冷泉五郎の墓も祀られている。左に並ぶのは十一士の内、松島剛三以下7名の墓である。

道の右側には大きな殉難士碑が建っている。明治29年に建立され、高さは210cmある。

道の突き当たりには、周布政之助清水清太郎、福原元福・益田親施国司親相の3家老の墓が並ぶ。

その裏手に楫取道明の墓がある。楫取道明は、萩藩儒小田村伊之助(楫取素彦)と松陰の妹寿子の二男として安政5年(1858)萩に生まれた。道明は学問を好み、和歌に堪能、宮内省に入り御歌所の講師となった。明治28年台湾に渡り、現地学童の教育に専念し台湾教育者の指針となったが、抗日ゲリラに襲われ同僚5人の教師とともに39歳で殉職した(芝山巌事件)。

楫取道明の墓の右には、山田顕義の顕彰碑がある。山田顕義は、松下村塾に学び尊攘活動に参加した。慶応元年(1865)の長州藩内訌では高杉を助け、戊辰戦争でも参謀として各地を転戦した。西南戦争でも功があり戦後中将まで昇進した。日本大学国士舘大学の設立にも尽力した。

毛利家墓所には500を超える石灯籠があり、国の史跡に指定されている。門で仕切られた墓所の周囲にもたくさんの石灯籠が並んでいる。

墓所内には大きな鳥居があるが、これは神仏習合の名残であるとともに、偉大なる藩主を弔った神聖なる霊域であることを示したかったのではないかと考えられている。霊域入り口の門にかかる慧極禅師の書「無塵勝地(塵なき優れた地)」の額もそれを物語る。

墓所内に整然と並ぶ石灯籠は家臣らが寄進したもので、その一基毎に弔う藩主・夫人の法名と寄進者名・年月日が刻んである。毎年8月15日には、萩の夏の風物詩「萩・万灯会」が催される。約500基の石灯籠に入れられたロウソクの火が幻想的な世界を作り出す。

御廟(おたまや)ともいわれるこの墓所には、東光寺開基の3代藩主毛利吉就、5代吉元、7代重就、9代斉房、11代斉元の奇数代の藩主の5基並びにその夫人の墓5基が正面に建ち並ぶ。なお、初代秀就と偶数代の藩主は萩市の大照院に廟所がある。秀就の父・輝元の廟所は萩市の天樹院跡にある。
墓の形式は五輪塔型の大照院のそれと違って、唐破風の笠石付き角柱(位牌)の形に統一してあり、墓石には法名が刻まれ、笠石には家紋の沢瀉(おもだか)紋が陽刻されている。法名が赤字のものは生前に建てられた墓だろうといわれている。

左から6基目(ここでは一番右)が3代藩主毛利吉就で、その左が夫人亀姫、左に進んで9代斉房と夫人幸姫、5代吉元と夫人品姫と並ぶ。

一番右端が7代重就で、その左が夫人登代姫、その左が11代斉元、その夫人由美姫と続く。

藩主・夫人の10基の墓の右手、左手と入り口手前には、一族関係者(子、孫、側室、侍女ら)の墓がある。