半坪ビオトープの日記

上時国家


国道249号を曽々木海岸の手前、町野川を渡った曽々木交差点で右折し500mほど行くと、岩倉山を背に2つの時国家が300mほど離れて屋敷を構えている。上流側の町野平野を見下ろす高台に建っているのが、本家上時国家である。

国の重文に指定されている上時国家住宅は、天保2年(1831)頃現在地に移り、安政4年(1857)頃までに完成したという。母屋は、建坪189坪、間口12間半、奥行9間、高さ18mの入母屋造茅葺で、四方に桟瓦葺の庇を巡らせ、正面には唐破風造りの玄関を設けている。北陸地方でも最大級の規模を有する江戸末期の民家建築であり、国の重文に指定されている。
源平・壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門のうち、「平家にあらずんば人にあらず」と奢った言葉を述べた平時忠は、清盛の小舅として権並ぶ者なき勢威を示し、清盛亡き後も平家一族の頭領だったが、壇ノ浦の戦いで敗れた際に生きて捕らえられた。時忠は流罪で、文治元年(1185)に奥能登の現在の珠洲市大谷の地に配流され、その地で生涯を閉じた。
時忠の子・時国は平家の子孫ということもあり、しばらくは牛尾という山の中に潜んでいたが、その後、町野の地に移り居を構え、時国を姓とするようになった。寛永11年(1634)13代藤左衛門時保は、時国家を二家に分立し、上時国家は天領を、下時国家は加賀藩領を支配することとなった。上時国家は江戸時代以来、代々庄屋を務め、名字帯刀を許されていた。

江戸末期に第21代当主が建てたというこの建物は、豪壮・華麗で、農家建築の中に書院造りの手法を取り入れている。欄間の彫刻もとても精巧に仕上げられている。

各18畳敷きの上広間、下広間の襖には、「丸に揚羽蝶」の平家定紋が金箔で描かれている。

上時国家住宅は、大庄屋屋敷として公用部分と私用部分を分割した構造で、公用部分の中心に大納言の間がある。御前の間とも呼ばれる大納言の間は、大納言の格式を表す縁金折上格天井をもち、幕末の加賀藩主・前田斉泰が嘉永6年(1853)にここを訪れた際、「余は中納言である。この部屋は大納言の格式を持っているので入ることはできない」といって、天井に紙を貼ってから入室したという逸話が残っている。この大納言の間の欄間の彫刻は、珍しく蜃気楼を描いている。

裏手の私用部分の部屋には、武具や火消し装束、道中道具、屏風なども展示されている。

鏡台、刀箪笥、手箪笥、薬草箱などの調度品や、珍しい蘭引、からくり人形なども展示されている。蘭引とは、酒や化粧水などを蒸留する陶製の道具で、古代ギリシアで発明され、アラブ人が改良を加え、アラビア語ポルトガル語でアランビックと呼ばれる。

炉には自在鈎が吊るされ、神棚は神仏混合神棚となっている。

こちらの炉にも鍋や薬缶が吊るされ、土間には竃や大きな流しが設えられていた。

広い空間を占める土間は、この巨大な建物を支える柱・梁組と、茅葺大屋根の内部構造を見ることができる。

土間の松の木の梁には、しっかりとした造りの駕篭がいくつも吊り下げられていた。

中庭にある庭園は、鎌倉時代の池泉鑑賞式書院庭園とされ、平池には心字池を配し、高庭は裏山を借景にして自然の地形を巧みに利用する構成で、国の名勝に指定されている。