半坪ビオトープの日記

旧小笠原家書院


天竜峡から北西に三遠南信自動車道ができて中央自動車道につながったが、それを使わず北西に少し行った飯田市伊豆木に旧小笠原家書院がある。伊豆木小笠原家は、伊那地方で中世以来の名家である松尾小笠原家の一族で、天正18年(1590)本庄に移っていたのを、慶長5年(1600)に初代長巨が元の伊豆木に移封されたのが始まりである。

ここに屋敷を構えたのは中世に城のあった要害の地だったからで、今でも屋敷の裏山には空堀や曲輪の跡が残っていて城山と呼ばれている。大手橋から城門へ上る坂道沿いには、モミジが真っ赤に燃えていて色鮮やかだった。

初代長巨は関ヶ原の戦いでの功績により、家康に伊豆木1000石を賜り、大坂冬の陣、夏の陣でも貢献した。江戸時代の館は小さな城郭の形で、玄関を備えた御用所の裏手に書院・居間・御守殿・台所など多くの建物が建ち並び、典型的な土豪の居館構えだった。しかし明治5年の帰農に際し、書院と玄関を除き全て取り壊された。短い坂道の先には小さな城門が建っていて、そのすぐ奥に書院が建っている。

初代長巨は慶長4年に伊豆木村を治めるようになって間もなく陣屋の建設に取り掛かり、寛永初年(1624)頃に建て終えたと考えられている。斜面に建物の3分の1ほど張り出した懸造りの書院は全国的にも珍しい。昭和44・45年に解体修理され、平成20年には屋根の柿葺も葺き替えられた。

唐破風の玄関は、以前は御用所の正面にあったものだが、明治の初めにここに移された。正面虹梁上には家紋の三階菱を飾った蟇股を据えている。玄関の板戸は、舞良戸(まいらど)といって書院に使われるものである。

寛永初期に建てられ、小笠原氏が昭和39年まで住んでいたこの書院は、昭和27年に住宅としては全国に先駆けて国の重文に指定された。接客用に建造されたもので、田字型四部屋の平面構造で、東南西の三方に1間幅の入側縁を巡らしている。南二の間には、格式高く3間一杯に大床が備えられている。

天井も南2部屋は格天井を用いている。入側縁の外は中敷居を入れた低い窓状の開口部とし、明障子を立てて外側に雨戸を引いている。雨戸は桃山時代に発明されたもので、書院の外回り全体に雨戸を用いるのはやっと寛永頃から普及したといわれるので、当時の先端の工法を採用したことになる。一の間と二の間との間の大きな欄間は、大菱欄間となっている。柱の釘隠は永楽通寶の銭型である。

奥の南一の間は11畳で、1間半の床と花頭窓を持つ付書院が設けられている。四部屋の中で最も格式が高く、江戸時代には殿様以外入室できなかった。

南入側中央には竹の節欄間を置いた間仕切りを設け、格式高く杉戸を立てて仕切っている。

これが南一の間の花頭窓を入側縁から見たところである。

北側も奥の居間には1間半の床があり、玄関に近い茶間は控えとなっている。天井は棹縁天井で、部屋全体が質素となっている。ここに駕籠と輿が置かれていた。駕籠は江戸時代の美濃久々利の千村家から嫁いだ奥方のもので、輿は戦国時代の武田信玄正室・三条夫人が使用したものという。
書院全体は、内部の大菱欄間や格天井などに桃山風の豪壮さを伝え、廊下のような広縁を座敷の周囲に格式高く設けるなど、近世初期の地方武家住宅を知る遺構として貴重である。