半坪ビオトープの日記

出水麓武家屋敷


阿久根市の東隣にある出水(いずみ)市の麓町には、日本有数の武家屋敷群がある。江戸時代、薩摩藩鶴丸城を本城とし、領内各地に113(後に102)の外城(とじょう)と呼ばれる行政区画を設け統治に当たっていた。外城における統治の中心地を麓と呼び、肥後藩との国境にあった出水麓は、薩摩藩で最古最大の麓で、ほかの外城・麓も出水に倣ったといわれる。

出水麓は、広さ約60haの高屋敷(うち往時の姿を残す約44ha、およそ150戸の集落一体が国の重要伝統建造物群保存地区に選定されている)と平良川左岸の向江の両武家地、その間の町人地域(本町・中町・紺屋町)からなっていた。ここ高屋敷は、出水郷に赴任する薩摩藩士の住宅兼陣地として、中世山城である出水城の麓の丘陵地帯を整地して作られた。その整地には、関ヶ原の戦いの前年(1599)本田正親が初代地頭に着任してから、3代地頭の山田昌嚴の治世下まで約30年かかった。この通りは堅馬場通りで、突き当りの左に御仮屋門があり、右の角に竹添邸がある。

現在でも、建設当時から改変されることの少なかった街路、その両側に築かれた石垣や生垣、庭の木々が、武家門や垣間見える武家屋敷と相まって落ち着いた街路景観を醸し出している。竹添邸の前から堅馬場通りを振り返ってみると、左側の石垣は野石乱積みで、その上に檮の生垣が植えてある。

出水麓武家屋敷群は、現在も住宅地として残っているため、屋敷はパンフに載っている30軒ほどの内、竹添邸と税所邸の2軒だけが公開され、武宮邸は庭のみの公開である。竹添邸は、幕末時代には推定1000坪を越すほどの広さがあったようで、屋敷は藩主の宿泊宿である御仮屋に最も近い重要な位置にあり、武家門は堅馬場通りに面して構えられ、門より南側に主屋がある。

座敷を堅馬場側に向けて、石垣との間が庭となっており、武家門を入ってすぐ右側の中門の奥に氏神様の祠がある。

竹添家は、肥後の国人吉、球磨城主相良氏の一族で、寛永14年(1637)米ノ津から麓へ屋敷が移り、上級郷士である組頭や郷士年寄り「あつかい」など出水郷の要職を代々務めた。主屋の正面に土間の入り口がある。

主屋の右手前には離れの風呂があり、中には五右衛門風呂が設置されている。

建物の建築は、明治初期を下らないとされている。見学は庭から上がった広間から始まる。

広間の奥の仏間の先に次ぎの間がある。次ぎの間もかなり広い。

次ぎの間の左に、床の間の設けられた座敷がある。座敷の壁には赤いベンガラが使われており、格子の欄間、竿縁天井と重厚な雰囲気が漂う。この座敷で、大河ドラマ篤姫」のロケが行われたという。

最後に、土間の手前の板の間のさらに手前に、食器やお膳などが収納されている「なかえ」がある。