半坪ビオトープの日記

知覧武家屋敷


北薩の宮之城から南薩の知覧まで一気に南下した。江戸時代、薩摩藩は領内各地に113(後に102)の外城(とじょう)を設け、麓と呼ばれる武家集落を作り統治に当たらせていたが、出水麓と同じく、知覧麓の武家屋敷群も薩摩藩の典型的な麓として知られる。

知覧武家屋敷は、南九州市役所の南の入口から東へ700mほどの武家屋敷通り(本馬場通り)の両側に沿っている。通りの入口の西に木製の橋があり、その向こう側に立派な門が見える。その先には麓公園とふもと横丁があり、土産物屋や食事処などもある。

折れ曲がった武家屋敷通りに沿って連なる、石垣と生垣からなる景観は特に優れ、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。他地域の武家屋敷の石垣は、出水麓のように野石乱積みが多いが、知覧の石垣はきれいな切石整層積みが中心で見事である。通りに入ってすぐ左手に西郷邸がある。

7つの庭園が「知覧麓庭園」として国の名勝に指定されるとともに公開され、そのうち6つが枯山水式庭園である。西郷恵一郎邸は知覧郷地頭仮屋跡に隣接している。門をくぐると正面に石組の壁があり、左へ折れてまた石壁にぶつかる。このような折れ曲がった木戸は、城郭の枡形に由来するといわれる。

西郷恵一郎庭園の作庭は、文化文政年間(1804~29)で、庭園面積は208平方m、様式は大刈込式蓬莱石組枯山水という。庭の南東部の隅に枯滝の石組みを設けて高い峰とし、この峰から低く高く刈り込まれたイヌマキは遠くの連山を表現している。「鶴亀の庭園」ともいわれ、一変して高い石組みは鶴となり、亀は大海に注ぐ谷川の水辺に遊ぶがごとく配され、石とサツキの組み合わせは絶妙とされる。
薩摩藩内に数多くあった外城において、知覧以外にこのような庭園が造られたのはほとんどないという。

西郷邸の斜向かいに平山克己邸がある。通りから門をくぐって屋敷内へ階段を上がるようにして入る。道路面よりどの庭園も地表面が高くなっているが、これは道路を削って造ったためといわれる。

平山克己庭園は、明和年間(1764~71)の作庭で、庭園面積は277平方m、様式は大刈込式蓬莱石組枯山水である。母ヶ岳の優美な姿を取り入れた借景園である。正面(北東)の隅には石組を設けて主峰となし、イヌマキの生垣は母ヶ岳の分脈をかたどっている。どこを切り取っても一つの庭園を形作り、調和と表現に優れた庭園とされる。

知覧は「薩摩の小京都」と呼ばれるように、北東に横たわる母ヶ岳(517m)の優美な姿を借景として、多くの庭園が1700年代から1800年代初めにかけて作られたとされる。

平山克己邸の先の同じく右側に、平山亮一邸がある。

平山亮一庭園は、天明元年(1781)の作庭で、面積は277平方m、様式は石組の一つもない大刈込み一式の庭園である。イヌマキによる延々たる遠山は、その中に三つの高い峰を見せ、前面にはサツキの大刈込みが築山のようで、母ヶ岳を庭園に取り入れて極端に簡素化された借景園である。これほど大きな刈込みの庭はどうやって剪定するのだろうか。維持管理の苦労がしのばれる。刈込みの前には琉球庭園に見られる盆栽を載せるための切石が並んでいる。書院は嘉永年間(1848~54)に再興されたそうだ。
この先にまだ4つも公開庭園があるが、先を急いでここらで引き返した。

知覧の初見は鎌倉初期にさかのぼり、地頭職として佐多氏の名が見られる。現在残っている武家屋敷群は、江戸時代中期、佐多氏18代当主で知覧領主の島津(佐多)久峰の時代に形成された。江戸時代後期では、約500件で3500人程度の武家屋敷に対し、町家は10件未満で人口30人程度だったという。南九州市役所前の交差点近くの麓川に架かる永久橋あたりが町の中心地である。