半坪ビオトープの日記

宮之城、宗功寺墓地


出水から20kmほど南東の、さつま町の川内川中流域河畔に小さな宮之城温泉がある。江戸時代文政年間(1818~30)の開湯で、古くは湯田温泉といわれ、豊富な湯量と泉質の良さで知られる。宮之城温泉で泊った翌朝早く、散歩がてら宗功寺墓地を見て回った。さつま町役場の少し西の丘陵に宮之城歴史資料センターがあり、最後まで島津氏に抵抗し続け島津家から来た妻によって刺殺され断絶した祁答院家、島津氏に下った入来院氏、東郷氏など澁谷一族の古文書や資料が紹介されている。センターの隣の宗功寺公園の奥には、宮之城島津家の菩提寺・宗功寺跡と墓地がある。この広場には、15世紀代と考えられる鍛冶・製鉄炉跡が7つ散在している。広場の向こうが宗功寺跡で、その左に墓地がある。

広場の左奥に「遺錦(錦を遺す)」と彫られた頌徳碑がある。さつま町の養蚕の起源は、約420年前の桑御前(初代領主島津尚久の母、大弐)の頃からといわれる。文化・天保の頃には近江国から教師を招き家臣に奨励したという。明治26年福島県出身の菅野平十郎の指導で蚕種製造に成功し、養蚕はさらに進展した。その献身に対して建てられた菅野平十郎の頌徳碑がここに移転されている。

宮之城領主・島津家二代忠長は、天正15年(1587)薩摩が豊臣秀吉に攻められ降参した時、人質として京に上った。京都では紫野竜宝山大徳寺の玉沖和尚の感化を受け、宮之城領主になったとき京都の玉沖和尚を開山として、この宮之城の松尾城跡に大徳山宗功寺を創建し、島津家の菩提寺とした。明治初期に廃仏毀釈が行われ、宗功寺も除却された。この一対の鬼瓦が本堂のものである。手前の石材は、廃仏毀釈後に神社として奉った鳥居の残骸と思われる。

宗功寺跡の左手に墓地があり、宮之城領主・島津家二代忠長をはじめ累代の墓が33基残っている。この墓石群は九州一の規模を誇り、国内でも有数の墓所とされる。墓所自体は現在も宮之城島津家の管理下にあるが、祠堂型の特異な墓石の形状などから鹿児島県の指定史跡となっている。
宗功寺墓地の石標とともに現れた墓地の墓石は背を向けている。

墓地の入り口に向かって石柵に沿って右に進むと、最初に見えるのは七代久方の墓石と七代久方の奥方の墓石である。高さが約3mもある祠堂型の墓の屋根や台座などには彫刻が施され、中国や琉球文化を偲ばせるものがある。

石柵の先の角を左に回り込んで墓地の中央に向かうと、ほとんどの墓が正面を向いているのに、二つだけ横を向いている。六代久洪の奥方と五代久竹の奥方の墓である。奥には宗功寺を建てた五代久竹の墓と、その右に三代久元の墓が見える。

墓地全体が見通せるようになったが、右手に歴代住職の石塔群が並んでいる。薩摩藩では廃仏毀釈が徹底的に断行され、ここ宗功寺と同様、島津家菩提寺の福昌寺も破壊されたが、その理由は島津藩主が平田篤胤などの国学からの復古神道の思想学説に私淑したことによる。廃寺による寺領からの財源を軍備費にあて、梵鐘などの金属類は大砲や弾丸の材料とされた。墓石だけでも残ってよかったが、菩提寺も破壊するとは狂気の沙汰であった。

墓地の中央には「祖先世功の碑」が建っている。この墓碑は、五代藩主島津久竹(久胤)が延宝6年(1678)に建てたもので、当時、幕府の弘文院学士であった林春斎の名文が刻まれている。
宗功寺墓地には宮之城島津家二代忠長以下累代の墓が揃っているが、初代藩主島津尚久の墓は南さつま市武田神社の境内にある。宮之城島津家初代藩主は島津尚久といわれるが、実際に宮之城藩主となったのは二代忠長からであって、尚久は宮之城藩主になってはいない。大きな石碑は大きな亀の背中に乗っており、その四面の文字を一度も間違わずに読み上げたら亀が動き出し、川内川に水浴びに行くと伝えられている。亀のような石碑の台は亀趺という。亀に似るが贔屓という中国の伝説上の生き物であり、重きを負うことを好むという。
祖先世功の碑のすぐ後ろには、四代久通の墓があり、その左、祖先世功の碑の陰に三代久元の墓があり、その左に五代久竹と六代久洪の墓が並び、その左に五代久竹の奥方と六代久洪の奥方の墓がこちらを向いている。これらが墓地全体の左半分で、三代から七代までの藩主及び奥方の墓が並ぶ。

祖先世功の碑に相対して、二代忠長とその左に奥方の五輪塔の墓が並んでいる。宗功寺が五代久竹の時に建てられたのだから、この墓地も当初は二代の忠長及び奥方の墓と祖先世功の碑が相対し、その後ろに四代久通とその左に三代久元の墓だけが揃っていただけと思われる。その後に祖先世功の碑の左右後ろに累代の墓が加えられてこのように壮大な墓地となったはずである。

祖先世功の碑の右側に八代以下累代藩主及び奥方の墓がずらりと並んでいる。一番右手前に見えるのは、十四代久宝の奥方の墓である。

墓地右半分側の一列目の2番目に十四代久宝の墓があり、その後ろの左に九代久亮の墓、その右に八代久倫の墓が見える。

墓地右半分側の一列目の4番目に十三代久中の墓があり、その左後ろに十代久濃の墓がある。

十三代久中の墓の右隣に十二代久儔の墓があり、その右後ろのさらに右隣に十一代久郷の墓が認められた。全てを写真に収めたわけではないが、男尊女卑の風潮が強いといわれる薩摩でも奥方の墓は藩主の墓と同じ大きさだった。