半坪ビオトープの日記

奥の院、墓石群


奥の院は、承和2年(835)に入定したとされる空海の御廟を中心とする高野山の聖域である。11世紀に祈親の高野山復興によって、大師信仰の聖地として整備された。後世、一の橋から御廟に至る18町(約2km)の参詣道周辺の墓石群を含むようになり、およそ20万基を超える諸大名の墓石や祈念碑、慰霊碑の数々が立ち並んでいる。墓石群の中核をなすのは江戸時代初期造立の諸大名の五輪塔である。徳川家康高野山を菩提所と定めたことに倣い、全国大名の40%にあたる110家の諸大名がそれぞれ菩提寺を定めたことによる。大きな駐車場は中の橋にあるので、そこから参詣道に合流できる参道口がある。

参詣道と合流する角に芭蕉(1664~1740)の句碑が立つ。貞享4年(1687)江戸を出発した芭蕉は翌年、伊賀上野で父の三十三回忌を終えた後、高野山を訪れた際に次の句を詠んだ。
「父母の しきりにこひし 雉子の聲」(笈の小文
文字は江戸時代の有名な画家・池大雅の筆による。安永4年(1775)年の建立。
一の橋から参詣道中ほどの芭蕉の句碑までの間には、上杉謙信の霊屋、武田信玄の墓碑、伊達政宗石田三成明智光秀の供養塔などがある。また、ここを山側に入ると奥の院で一番大きい宗源院供養塔がある。宗源院とは、浅井長政お市の方の末娘のお江である。

参詣道を進むとすぐに、巨大な五輪塔が向かい合っている。これは藩祖前田利家の長男・前田利長の墓で、奥の院で3番目に大きい五輪塔で三番碑と呼ばれる。利長の墓の向かいには利長の妻・織田信長の四女・永姫(瑞泉院)の五輪塔が立つ。

こちらは美濃加納藩の2代藩主・松平忠政の供養塔である。松平忠政は、徳川家康の長女・亀姫が生んだ奥平忠政のことである。

参詣道の左手には円光大師(法然上人)の供養塔もある。奥の院入口の一の橋手前に熊谷寺がある。名の由来である熊谷直実は、建久元年(1190)平敦盛の七回忌に、師法然の指示により高野山に登り、平敦盛の石塔を建立し、菩提を祈った。その後、建仁元年(1201)に熊谷直実が源平総死者供養を行った際、浄土宗の開祖・法然は、親鸞と共に登山し、熊谷寺に逗留した。三人は庭前の井戸の水鏡で自らの姿を彫った。その像が安置されている円光堂の本尊は法然上人である。熊谷寺は、円光大師(法然)・見真大師親鸞)・熊谷蓮生法師(直実)の旧跡となり、法然上人二十五霊場の番外札所にもなった。

参詣道の右手には安芸浅野家墓所がある。石造鳥居の扁額には、右から「清光院」「慶雲院」「傳正院」「自得院」とある。それぞれ、浅野幸長浅野幸長正室浅野長政、浅野長晟であるが、大きな五輪塔は三つしか見当たらない。後ろにいくつか小さい五輪塔も見えるが、浅野幸長正室はそのどれかであろう。

次に結城秀康の石廟がある。越前松平家結城秀康徳川家康の次男で、母の長勝院と並んで祀られている。石造の家形堂宇は、ほとんど五輪塔の供養塔が並ぶ中では異様な光景である。右の入母屋造が結城秀康のもので、左の切妻造が長勝院のものである。

こちらは肥前島原松平家墓所であり、五輪塔がいくつも並んでいる。家祖は松平第3代信光の七男忠景の次男・忠定。寛文8年(1688)より島原藩主。

参詣道左の山側の広い敷地に豊臣家の墓所がある。天正15年〜文禄元年(1587~92)の造立で、散在していた石塔を一箇所に集めたとされる。幾つもの五輪塔が立っているが、名前が確認されているのは、中央の秀吉、母のなか、弟の大和大納言秀長夫妻、秀次の母である姉のとも、長男の鶴松、淀君の逆修碑(生前用意された墓)と推定される七基という。

こちらの五輪塔は、摂津尼崎青山幸成の供養塔である。青山幸成は徳川家康の家臣・青山忠成の4男で、5万石の摂津尼崎藩主となった武将である。