馬場家・森家が面する大町新川町通りを少し北に向かうと、桝田酒造店のお酒を立ち飲みできる「沙石」という有料試飲店がある。富山を代表する「満寿泉」100種を立ち飲みでき、ホタルイカや白エビの干物などの珍しいつまみも販売している。
「沙石」の裏手には中庭があり、素敵なレストラン「ピアット・スズキ・チンクエ」が離れのように繋がっている。
イタリアン「ピアット・スズキ・チンクエ」のシェフ・鈴木五郎氏は麻布十番の名店「ピアット・スズキ」にて研鑽を積み、富山県でオチアイ系列のレストランを経た後に独立したという。ランチの前菜盛り合わせは、魚の昆布締め、鰤にクスクスサラダ、地鶏もも肉、カポナータ、ポテトサラダ、フリッタータ醤油と出汁の泡と味わい深い。
裏庭の巨岩を組み立てた門を出ると、向かいは富山湾である。
富山港展望台には歩いて登ることができる。高さ24.85mの展望台は、琴平神社に建てられた「常夜灯」をモチーフにしている。琴平神社の常夜灯は北前船の時代には灯台の役目を果たしていたといわれ、船の安全と港の繁栄を願ってこのデザインになったという。
展望台から見下ろす埠頭には、輸出用なのか、乗用車がたくさん並んでいる。北西の彼方には能登半島の山並みがかすかに認められた。
南東を眺めると、立山連峰らしき高い山並みが雲の上に浮かんで見えた。
岩瀬から富山駅の東にある薬種商・金岡邸に向かう。金岡邸は、300年の歴史をもつ富山売薬業や薬業全般にわたる多くの資料が保存展示される、国内でも稀な薬業資料の館である。母屋部分は明治初期の商家で、典型的な薬種商店舗の遺構をとどめ、新屋部分は大正期の総檜造りの建物で、豪壮で格調の高い折上げ格天井の座敷を有している。「旧金岡家住宅」として、主屋・新屋・門・塀・土蔵が国の登録有形文化財となっている。
金岡家は江戸末期より薬種商を営み、家祖・金剛寺屋又右衛門の長男・金岡又左衛門は、若くして県議会議長、衆議院議員を歴任した。全国でもいち早く電気事業に注目し、明治32年(1899)に大久保発電所を完成し、北陸で初めて電灯をともし、多くの水力発電所を建設した。大正2年(1913)に北陸初の電鉄工事を完成し(富山軌道)、大正11年(1911)には常願寺川の治水につとめ、砂防工事を国営事業に組み入れる道を開いた。他方、私財を育英事業にも投じた。帳場の壁には一面に万延元年(1860)の薬箪笥(百味箪笥)が備え付けられている。その上に掲げられている「丹霞堂」の書はかつての店名で、明治時代の著名な書家・日下部鳴鶴によるもの(明治43年)。
二代目又左衛門は戦後、第一薬品(株)や富山合同無尽(株)(現富山第一銀行)を設立した。三代目又左衛門は、テイカ製薬(株)や富山女子短大を創立し、富山相互銀行を経営した。五代目金岡幸二は、情報産業のパイオニア、富山計算センター(現インテック)を設立し、全国屈指のコンピューター企業(ITHD)に育て、富山国際大学を設立した。このように金岡家は歴代薬種商時代の資本を元に、富山県の経済界に力強い足跡と業績を残してきた。館内には「ジャコウ鹿の香袋」など薬の原料や薬研などの道具類が所狭しとたくさん展示されている。
薬の原料の大部分は、中国や東南アジアから輸入した最高の生薬で、富山の薬種商がそれらを仕入れて「売薬さん」に販売していた。富山売薬は、富山藩二代目藩主・前田正甫が、江戸城で急病になった大名を薬で救い、各大名からの薬の販売を頼まれたことが始まりとされている。富山の薬売りのトレードマークともいえる柳行李は、重さが20kgもある。これを背負い、毎日20〜30kmの道のりを歩いたり、船便や馬の背を使ったりして行商した。お得意さんに先に薬を預けておいて、後に使用した分だけの代金を頂く「先用後利」の商法は、富山の薬を全国に浸透させるきっかけとなった。