半坪ビオトープの日記

小田野家、河原田家、岩橋家


秋田蘭画で有名な小田野直武がでた小田野家は、今宮氏配下から佐竹北家の家臣となった家柄で、その分家がこの小田野家である。明治33年の大火で類焼し、現在の家屋は火災後に建てられたもので、間取りは近世武家住宅そのものだが、門構えはじめ全体的に簡略化されている。

起こり破風と懸魚が姿を消し、屋根は木羽葺き切妻造になり、玄関も一般の通用口と正式のものとを一緒に使い、玄関土間の上がりかまちで身分を区分するという中級武士の屋敷の造りとなっている。

小田野家分家では、居合いの師範や眼科治療などの功績があり、江戸初期の25石から幕末には88石に加増されている。かつては門を入った右側に道場があったという。部屋内に上がることはできないが、襖・障子が開けられて中を垣間見ることができる。

前庭にはドウダンツツジや笹が植えられ、中庭には鬱蒼と樹木が植えられ、苔むした岩が随所に配置されている。

小田野家のすぐ北に河原田家が隣接している。河原田家は、慶長8年(1603)佐竹家当主・佐竹義宣が秋田に配属された時に、角館を任せるために佐竹家と一緒に秋田に来た芦名家の譜代の家臣だった。芦名家は会津藩では60万石、その後角館に来て元和6年(1620)に現在の町割を作った。河原田家は、明暦2年(1656)に断絶した芦名氏に代わって角館所領として入部した佐竹北家の家臣となった。角館に来てから15代、会津も含めると30代以上の歴史を持つ家柄である。明治になってから電気事業の草分けとなり、薬医門の表札の下に「電話一番」の古びた札がかかっている。

現在の建物は明治中期に建てられたものだが、その間取りは武家住宅の形式を踏襲していて、屋敷の構成は藩政時代そのものである。主屋の屋根だけが町家風の切妻木羽葺きなのは、防火対策のためだという。

河原田家から北に向かって帰る途中に岩橋家がある。岩橋家も芦名氏の重臣だったが、芦名氏が途絶えた後は佐竹北家に仕えた中級武士の家柄である。

屋敷は江戸時代末期に改造され、屋根も茅葺から木羽葺きに変わって現在の形になった。角館の中級武士の屋敷として、庭や間取りなどに典型的な形を残している。「たそがれ清兵衛」の撮影場所ともなった。

樹齢300年以上のカシワの巨木がこの家のシンボルである。樹径1.03m、樹周3.23m、樹高22.5mで、仙北市の天然記念物に指定されている。