半坪ビオトープの日記

下時国家


上時国家の下流側に分家の下時国家が建っている。天正9年(1582)能登は加賀前田藩領に、その後、慶長11年(1606)には時国村の一部が越中土方領となり、時国家は二重支配を受けることになった。寛永11年(1634)13代藤左衛門時保は、時国家を二家に分立し、上時国家は天領を、当人は加賀藩領に居を定めた。それが下時国家の始まりである。江戸時代を通じて、肝煎、山廻役、御塩懸相見役、御塩方吟味人役など藩の役職を代々受継ぎ、農業、塩業、回船業などを営んできた。邸宅の構造は、木造平屋建て、間口13間、奥行8間、総面積108坪、入母屋造茅葺で、四方に瓦葺の庇を巡らせている。国の重文に指定されている。

間取りは奥能登型(能登Ⅲ型)農家の形式で、大戸口を入ると40坪の大土間が間口の約半分を占める。1尺5寸角の太い大黒柱や巨大な梁組は豪壮で、往時の豪農の館を偲ばせる。屋根裏には「かくし蔵」がある。

がっしりとした造りの台所に設けられた、竃の釜もかなり大きい。

広い板の間の炉の回りには御座が敷かれ、奥には大茶の間や前の部屋が見られる。

大茶の間に続く仏間には、仏壇の上に神棚が張り出し、神仏混淆の伝統が認められる。

上時国家には格式高い大納言の間があったが、下時国家にも天井こそ普通だが、式台玄関から下段の間、中段の間、上段の間と続く格式を示している。

回遊式庭園は2000坪あり、自然の地形を巧みに利用し、背景には樹齢800年という椎の古木が鬱蒼と茂っている。国の名勝に指定されている。

庭の一画には、能登安徳天皇社が祀られている。壇ノ浦の戦いで平家が破れたとき、安徳天皇二位の尼に抱かれて入水したが、生存者最高重臣の平大納言時忠は、義経との約束により能登の地に配流され、その子・時国が時国家を興した。昭和60年、源平800年を期に赤間神宮より分霊して、この安徳天皇社が建立されたという。

主屋横には展示室が設置され、下時国家に伝わる衣装などが展示されている。これは、平家定紋揚羽蝶紋が施された陣羽織である。

こちらも揚羽蝶紋が施された陣羽織や、陣笠、胸当である。

こちらにも揚羽蝶紋が施された様々な調度品が展示されている。

庭の馬屋には、唐箕などの農具や桶、臼などの古民具が展示されている。