半坪ビオトープの日記

勝林院

魚山大原寺勝林院
三千院の北に位置する魚山大原寺勝林院は、天台宗の寺院で、承和2年(835)円仁(慈覚大師)によって開かれたと伝えられる。長和2年(1013)寂源により復興され、勝林院が建立され、声明も復興された。

勝林院
天仁2年(1109)聖応太師良忍が来迎院を創建すると、勝林院を本堂とする下院と来迎院を本堂とする上院が成立し、両院を以て「魚山大原寺」と総称されるようになった。以来、大原で伝承されてきた声明は「大原流声明」や「魚山声明」と呼ばれ、浄土宗や浄土真宗などの声明の原型でもある。

本尊の阿弥陀如来
文治2年(1186)に、法然と顕真などによる宗論、「大原問答」が勝林院で行われた。顕真の招請により、法然が浄土宗義について明遍、証真、貞慶、重源らと一昼夜に亘り問答が行われた。顕真らが法然12の難問を投げかけたが、法然は念仏によって極楽浄土へ往生できることをはっきりと示した。

阿弥陀如来
その時、本尊の阿弥陀如来が光を放って法然の主張が正しいことを証明して見せたという。そのため奇瑞を示した阿弥陀如来は「証拠の阿弥陀」と通称され、本堂も「証拠堂」と呼ばれるようになった。聴衆たちは大変喜び、三日三晩途絶えることなく念仏を唱え続けたという。なかでも重源は翌日には自らを「南無阿弥陀仏」と号して法然に師事している。

勝林院の本堂より
勝林院は火災や水害のたびに再建されてきた。現在のお堂は安永7年(1778)に再建されたもの。幅七間、奥行六間の総檜造りで、屋根は椹(さわら)板を重ねて葺いた柿葺である。創建当初の本尊阿弥陀如来坐像は、仏師の康尚の作と伝わるが、延徳2年(1490)の騒擾で出火し、本尊頭部を損傷した。現本尊の頭部はその2年後修理したものである。

欄間や蟇股の彫刻

欄間や蟇股などに彫り込まれた立体的な彫刻は当時の木彫技術の素晴らしさを今に伝えている。

向拝柱の上の手挟み
向拝柱の上の斗栱と垂木との間に取り付けられた手挟み(たばさみ)は、江戸時代になると極端に伸びて装飾化が進むが、勝林院の手挟みはとりわけ手の込んだ彫刻となっている。

欄間と蟇股の彫刻

欄間の彫刻も紅葉や松に鳥も加え、立体的に組み立てられている。上の蟇股には、人物が認められるので中国の説話を表現しているのだろう。勝林院境内には、山王社、観音堂、弁天堂、鎌倉末期の宝篋印塔、江戸初期の鐘楼、平安中期の梵鐘など見どころも多い。