半坪ビオトープの日記

菊屋家住宅


萩八景の後、萩市内を少し観光した。これは旧毛利家別邸の表門である。建築年代は明治時代、14代藩主・毛利元徳が鎌倉材木座に建てた表門。大正10年別邸とともに萩市内に移築され、昭和49年に現在地に移築された。屋根の両端に鯱の原型といわれる鴟尾(しび)を乗せた桟瓦葺寄棟造の門である。

旧萩城の外堀から外側に広がる城下町は、町筋は碁盤目状に区画され、中・下級武家屋敷が軒を連ねていた。旧御成道(おなりみち・参覲交代の際に大名行列が往来した道)に面して藩の豪商、江戸屋、伊勢屋、菊屋の商家が並んで横町にはその名が残されている。美しいなまこ壁が続く菊屋横町には、高杉晋作の誕生地、田中義一の誕生地がある。

こちらは旧久保田家住宅。呉服商・酒造業を営んでいた久保田家は、江戸時代後期に建てられ、主屋・門・塀・離れが旧御成道に面している。主屋は屋根裏に物置や、使用人の寝間を設けた「つし二階」を持ち、立ちが高いのが特徴である。

旧久保田家住宅に向かい合って建っているのが、菊屋家住宅である。菊屋家は、摂津の住吉大社の津守摂津守国量朝臣を祖とし、中世期大内氏随身して山口に住み、同氏滅亡後は武士を捨てて町人となった。その頃山口四十八町の惣町支配を勤め、永禄12年(1569)大友宗麟の後押しで大内輝弘が山口に乱入した時は四十八町の人を連れ、高嶺城に立て籠もって防戦に功があり、毛利元就から感状を受けた。はじめは津守姓であったが、後に石川姓・菊屋姓に改めた。慶長9年(1604)毛利輝元の萩入国に従い、現在地に屋敷を拝領して家を建てた。萩城下の町割りに尽力し、阿古ヶ浜には藩士足軽衆のための家を建てて住まわせたので、それより世上阿古ヶ浜を菊ヶ浜と称するようになった。その後、菊屋家は代々大年寄格に任命され、藩の御用達を務めた。また度々、御上使の本陣を命ぜられ、しばしば藩の御用宅に借り上げられた。

主屋・本蔵・新蔵(金蔵)・釜場・米蔵の5棟が国の重文に指定されている。主屋は慶長11年(1606)に家の完成祝いに毛利輝元を招待しているので、現存する町屋としては全国的にも最古のものに属する。
御成道に面する長屋門から屋敷に入ると右に中門、正面にこの御成門があり、中に書院や庭が見える。

書院から築山式枯山水の庭を見ると、奥には萩城を築城した際に出た石がたくさん使われている。中央には駕篭置石という大きな平たい石が置いてある。御上使等は御成門を経てこの石に駕篭を置き、縁側から入室したと伝えられている。庭の向こうには東蔵があり、庭の右手先には大きな庭園が構えているそうだが、年2回しか公開されない。

書院は客間として使われていた。建物自体はたびたび建て替えられ、今は展示品が飾られている。

まだ3月下旬ということで、部屋のあちこちに様々な雛人形が飾られていた。

ここが店で、御成道に沿って細長く造られている。秤や算盤など商売道具が揃えられ、帳場の雰囲気がよく出ている。

井戸の向こうに本蔵がある。陶磁器、掛け軸、屏風などが展示されているが、蔵内は撮影禁止である。

金蔵は、文字通りお金を保存する蔵で、中央あたりに石室がありそこに保存していた。ここも蔵内は撮影禁止である。