半坪ビオトープの日記


正庁の左には武道の試験が行われた対試場がある。その左の三の丸小学校の敷地には、かつて武館や、天文台、医学館があり、当時の調練場を含めた弘道館の面積は、現在の旧県庁舎、県立図書館、三の丸小学校などを含めて、現在の弘道館公園の敷地の約5倍もあった。

正庁と対試場の南の角地は梅林となっていて、開花が遅れているウメの花が3分咲きほどで開いている。水戸の六名木の一つ、「烈公梅」の木もあったがまだほとんど咲いていなかった。
烈公(れっこう)とは、急激な藩政改革を断行した徳川斉昭に、死後付けられた名であるが、桃色の一重のウメの花びらは、素直に開いて可憐である。

対試場は武術の試合場だが、弘道館が戦場となった戦いは「弘道館の戦い」という。幕末の水戸藩では、天狗党(改革派の急激な尊王攘夷主義者の藩士)と諸生党(保守的な幕府支持者の藩士)に分かれて激しく対立していた。水戸藩出身の15代将軍慶喜弘道館至善堂に謹慎した頃に、今まで実権を握っていた諸生党が勢力を失い天狗党が実権を握った。諸生党は会津藩などが集まった奥羽列藩同盟側について新政府と戦い、敗れて再び水戸に戻るが水戸城に居場所がなく、既に慶喜がいなくなっていた弘道館を占拠した。天狗党の城方は三の丸弘道館の諸生党を攻めた。激しい銃撃戦で天狗党が勝ったが、弘道館は正門、正庁、至善堂を残して焼失した。今なお、正門や正庁玄関には当時の弾痕が残っているそうだ。

対試場の西の方にはサンシュユが満開で、黄色い小花が咲き乱れていた。

こちらの一角には水戸の六名木の一つ「江南所無」の立て札があるが、残念ながら桃色八重のウメの花はまだ全く咲いていなかった。