半坪ビオトープの日記

普門寺


つくば道に戻って少し南下すると、左手に普門寺がある。まっすぐのびた参道の突き当たりには、黒門と呼ばれる黒い山門がある。これは内側から見た黒門である。建立年代は不詳だが、筑波地域で最も古い寺社建造物の一つである。

黒門の先に、赤門と呼ばれる赤い山門がある。12月上旬だったのでまだ紅葉が美しかった。
赤門の手前左側には、何やら細かく記された石碑が立っている。

田中愿蔵隊陣営の跡という鎮魂碑である。元治元年(1864)3月に筑波山で挙兵した天狗党の田中愿蔵が陣屋を構えた跡である。田中愿蔵はその年6月に栃木宿、真鍋宿を焼き討ちして、天狗党が暴徒と呼ばれる原因を作ったといわれる水戸藩尊王攘夷派の過激派だった。他の天狗党の多くが明治になり名誉回復されたにもかかわらず、現在も汚名を着たままである。田中愿蔵隊は、全員がちょんまげを切り落とした「ザンギリ隊」とも呼ばれたが、それは田中愿蔵が士農工商を否定し、身分差別しなかったからだといわれる。3ヶ月ほどで千人を超える人が集まって軍資金の問題が生じ、田中隊は資金調達に失敗し、焼き討ち事件で天狗党から除名され、八溝山幕府軍に追いつめられ、田中愿蔵は捕らえられて久慈川の河原にて21歳で処刑された。
その後、天狗党本隊は、一橋慶喜を通じて朝廷へ尊王攘夷の志を訴えるべく京都に向かうが、慶喜幕府軍を率いていて、天狗党敦賀幕府軍に投降し、352名が処刑された。幕末の水戸藩では、尊王攘夷の急進派である天狗党と、幕府支持の守旧派である諸生党が激しく争って、有能な人物を多数失い、明治維新になって活躍する人物が残っていなかったのが惜しまれている。

慈眼山三光院普門寺は、筑波山麓一帯で布教を続けていた乗海和尚が、元享3年(1323)に開山した天台宗の寺院だったが、後に真言宗豊山派になった寺院である。寛政2年(1720)に再建された本堂は、平成21年に全焼し、本尊の阿弥陀如来像も焼失してしまった。この赤門は、天明3年(1783)再建されたものである。

新たに再建されることが決まった本堂跡の左側には、宝暦年間(1751-64)再建とされる客殿が建っている。

本堂跡の右手奥には墓地があり、その右に鐘楼が建っている。鐘楼の手前は庭園になっていて、仏像が彫られた石像物がある。

庭園の左端には、筑波石を組み込んだ三光の滝が見える。墓地に続く道の左に十九夜塔があるが、五輪塔の蔭でよく見えない。

応永9年(1402)没の第5世慶珍和尚は、常陸国の豪族(大名)小田氏(小田孝朝)を迎えて発展の基礎となし、僧兵500の普門寺は小田4ヶ寺の筆頭寺院となった。そのとき、小田氏の命により天台宗から真言宗に改宗したという。代々小田氏の祈願所とされ、最盛期には508ヶ寺の末寺を持つようになったという。
墓地には古い墓石がたくさんあるが、これが室町時代の小田氏供養塔(県指定文化財の九重層塔)である。