半坪ビオトープの日記

蚕影山神社、本殿


蚕影山神社の拝殿の右手に、これまた古びた額殿(絵馬殿)がある。筑波山周辺は、古来より絹に縁のある地域だが、江戸時代から明治の初期までは木綿の栽培が主流だった。明治・大正時代に入ると日本の産業として盛んに養蚕が行われ、「養蚕の神様」として農民はもとより繊維業界、特に種蚕業界ではこの蚕影山神社が篤く信仰された。

往年は宿屋、茶屋もあって、近年まで大型バスで来る参拝者で賑わったそうだが、今では養蚕もすっかり衰退して、参拝者もほとんど来なくなったという。この額堂には、賑わった往時の参拝者によるたくさんの奉納額が飾られている。

やはり、奉納者は蚕影山神社の分社がある関東甲信地方が圧倒的に多い。中には本物の繭玉を貼付けて「奉納」と文字にして額にしているものもあった。

日本の養蚕の始まりを語る話として「金色姫伝説」がある。養蚕を関西地方に広めた上垣守国が著した「養蚕秘録」(享和2年=1802)に紹介されている。雄略天皇の時代に天竺(インド)に旧仲国という国があり、帝は霖異大王といい、金色姫がいた。後添えの皇后が金色姫を憎み、大王の留守に山に捨てたり、庭に生き埋めにするなど何度もいじめていた。姫の行末を嘆いた大王は、桑の木で造った舟に姫を乗せて逃がした。つくば市豊浦に漂着した姫は、権太夫という漁師に助けられたが、やがて病を得て亡くなった。夫婦は唐櫃に姫の亡きがらを納めた。ある夜、夢に現れた姫が「食べ物をください。後で恩返しします」と告げたので、唐櫃を開けると、姫の亡きがらはなく、子虫がたくさんいた。舟が桑の木だったので桑の葉を与えるとすくすく育って、やがて繭になった。繭ができると筑波の仙人が現れ、繭から糸を取ることを教えてくれた。権太夫は養蚕を営んで栄え、豊浦に社を建て、姫を中心に、左右に富士と筑波の神を祀って蚕影山神社の始まりとしたという。それが養蚕の始まりで、この奉納額の絵は、唐櫃を開けたときの様子を描いているといえよう。長野県上田市神川にあった養蚕会社蚕種製造人の奉納である。

拝殿の後ろ、石垣が積まれた上に本殿が構えている。

本殿は、3間社流造である。すっかり寂れていて掃除などの管理も行き届いていないように見受けられるが、管理しているのは筑波山神社という。

ここにはかぐや姫の伝承もある。欽明天皇の皇女各谷姫、筑波山に飛び至り、神となり始めて神衣を織られた。国人等に養蚕太神と崇め奉られたという。本殿のある石垣のたもとには小さな祠がある。