半坪ビオトープの日記

男体山から筑波山神社


美幸ヶ原から急な山道を15分ほど登り詰めると男体山山頂に着く。ここにも昭和30年(1955)に改築された筑波神社本殿が建っている。筑波山の山名の由来には異説が多い。養老年間(717~24)成立の『常陸国風土記』では、国造に任命された采女臣氏の友属(ともがら)の筑箪命(つくはのみこと)が「我が名を国につけて後世に伝えたい」と筑波に改称したという。縄文時代には縄文海進で筑波周辺は海であり、「着く波(つくば)」あるいは波を防ぐ堤防の「筑坡(つきば)」が筑波になったとの説もある。

万葉集には筑波山を詠んだ長歌・短歌が25首もあるというが、記憶に残る歌はない。けれども百人一首の次の歌はなんとか口ずさむことができる。
筑波嶺の峰より落つるみなの川 恋ぞ積もりて淵となりぬる(陽成院
男体山も女体山も山頂にある本殿の神体は神衣(かんみそ)で、御座替祭で取り替えられる。

筑波山のケーブルカーは、大正14年に、関東では箱根に次いで2番目、全国でも5番目に開業した古い歴史を持つ。筑波山中腹の宮脇駅(標高305m)と山頂駅(800m)との標高差495mを約8分で結ぶ。全長1,634mは日本で3番目に長く、線路の3分の1がカーブしているのが特徴である。

山麓駅から筑波山神社にかけては、11月上旬には見事に色づいた紅葉が随所に見られる。

筑波山の創建は不詳だが、『日本記略』では弘仁14年(823)従五位下の筑波神を官社と為すとの記述が古い。延長5年(927)成立の「延喜式神名帳」では、筑波郡唯一の式内社で、筑波男神名神大社、筑波女神が小社とされる。江戸時代には幕府が別当寺の中禅寺を篤く保護し多くの堂塔が建立されたが、筑波神の影は薄かった。明治初期の神仏分離で廃寺となった中禅寺は伽藍の多くが破壊され、中禅寺跡地に筑波山神社が再興され、現在に至っている。中禅寺の本堂(大御堂)のあった跡地に、明治8年(1875)拝殿が造営された。
拝殿の右手や裏手には、末社日枝神社春日神社、厳島神社や朝日稲荷神社などがあるが、2・3年前に訪れているので今回は省略した。

拝殿前に建つ隋神門は、間口5間2尺、奥行3間の楼門で、茨城県随一の規模を誇る。古くは家光により寛永10年(1633)に寄進されたが、宝暦4年、明和4年と焼失し、文化8年(1811)の再建が現在に至る。江戸時代の神仏習合時には仁王門として仁王像を安置していたが、分離後は隋神門とされ、左に倭建命、右に豊木入日子命の隋神像を安置する。

隋神門のすぐそばに樹齢約800年、樹高32mとされる大杉が立っている。

広い境内では、伝統芸能で有名な「ガマの油売り」の口上が実演されている。ガマの油の由来は、大坂の陣に徳川方として従軍した、筑波山・中禅寺の住職であった光誉上人の陣中薬の効果が評判になったことによる。戦前は、強心作用、鎮痛作用、局所麻酔作用、止血作用があるという、ガマ(ニホンヒキガエル)の分泌物・蟾酥(せんそ)が入っていたともいわれるが、戦後は使われていない。

境内を下ってくると、妻飾りの唐草模様が引き立つ神橋が建っている。切妻造小羽葺屋根付、間口1間、奥行4間で、安土桃山時代の様式の反橋である。寛永10年、家光の寄進とされ、元禄15年(1702)に綱吉により改修された。春秋の御座替祭の際に、神輿と従者がここを渡る。

神橋より下の参道脇に、秋の七草で知られる萩の花が咲いていた。

日帰り温泉で入浴と食事を楽しんだ後、大きな朱色の鳥居の脇からバスに乗って帰途に着いた。