半坪ビオトープの日記

筑波山神社、拝殿


筑波山神社の祭神は、筑波男大神(イザナギ)と筑波女大神(イザナミ)の2柱で、延喜式には男体権現が名神大社、女体権現は小社と記されている。古くから山全体が神霊の宿る霊地であり、筑波山山頂にそれぞれ本殿(男体山神社・女体山神社)を奉斎する。中腹の本社は拝殿だけで、その奥の御扉から山頂の両殿を遥拝するという、山岳信仰に由来する古い神体山神社の特徴を持っている。

延暦元年(782)法相宗の徳一大師(藤原仲麻呂の子)が、筑波山寺(後の知足院中禅寺)を開いた。以来、山岳信仰と合わせて修験の霊場となり神仏習合が進んだ。鎌倉時代常陸国守護八田知家(小田氏の祖)の子八郎為氏は、筑波国造の名跡を継いで筑波山別当となった。江戸時代になると筑波山江戸城の鬼門にあたることから、知足院中禅寺は幕府の祈願所となり、隆盛を極めた。徳川家康は寺料500石を寄進した。3代将軍家光は、寛永10年(1633)に、山頂奥の宮、大御堂、三重塔、両社は遺伝、神橋、仁王門などの諸堂社伽藍を再建・新造した。明治維新廃仏毀釈では楼門・神橋・境内社は残ったが、壮麗を誇った大御堂など多くの堂塔は破壊され、仏像・仏具の大半が破壊された。明治8年(1875)大御堂本堂跡地に筑波山神社拝殿が再興され、仏教色が一掃された。

拝殿の右手には、境内社春日神社と日枝神社が並んで建っている。西殿の春日神社の祭神は、武甕槌神経津主神、天兒屋根神、比売神である。拝殿は両社共有で割拝殿形式であり、桁行5間梁間2間の入母屋造、正面と背面の中央に軒唐破風が備えられている。

東殿の日枝神社の祭神は、大山咋神であり、拝殿は春日神社と共有している。両社とも寛永10年(1633)徳川家光の寄進である。神仏習合の江戸時代には御座替祭に用いる神輿がこれらの拝殿に安置され、山下の里宮を兼ねていた。

延暦元年(782)徳一大師が、筑波山知足院中禅寺を開いたとき、その鎮守社として藤原氏に縁の深い両社を勧請したと伝えられている。春日神社と日枝神社の本殿は、拝殿の裏に並んで鎮座し、規模・構造とも全く同一の3間社流造である。日枝神社の本殿には三猿の彫刻がある。

さらに右手(東)に回り込むと、登山道、白雲橋近くの石段の上に愛宕山神社がある。火防の神を祀っている。

石段の左側に、六角石造宝幢があり、楠木正勝の墓とされている。正勝は楠木正成の孫で、南朝の忠臣であり、虚無僧の祖とも呼ばれる。正勝は、白雲橋の近くにあった今はなき古通寺(普化宗)に来ていたといわれる。

石段の右側には、小さな八幡神社がひっそりと祀られている。