半坪ビオトープの日記

飯縄寺、本堂


飯縄寺は、正式には天台宗明王山無動院飯縄寺(はんじょうじ)という。地元では「いづなさん」と呼ばれ、パンフでは「いづなでら」と記されている。寺の縁起によると、大同3年(808)慈覚大師により開山、元は満蔵寺と号したが、戦国の世に飯縄大権現を祀り、江戸初期に飯縄寺と改めた。江戸中期には東叡山(上野寛永寺)直轄となり、江戸からの参詣者も多く栄華を極めたという。五間堂の本堂は、棟札から寛政9年(1797)の再建とされている。

向拝虹梁下には、大天狗と烏天狗の面が懸けられている。飯縄寺は、別名天狗の寺ともいわれる。飯縄権現とは、長野県飯縄山に対する山岳信仰が発祥とされる神仏習合の神で、白狐に跨がった剣と策を持つ烏天狗姿で表され、戦勝の神として崇められ、足利義満上杉謙信武田信玄などの武将達に盛んに信仰された。

変幻自在の天狗、飯縄大明神は、一般には不動明王の化身とされ、飯縄寺の本尊も不動明王である。
寺宝として、嵯峨天皇直筆の大般若経や関白太政大臣近衛信房の小倉山荘色紙の和歌などがある。
向拝には、龍のほかにも彫刻がたくさん施されている。木鼻の獏の鼻もかなり長く突き出ている。本堂外面の欄間にも、珍しく波間を翔る麒麟が彫られている。

特に向拝正面の龍は、手前に飛び出ていてたいへん立体的であり、躍動感にあふれている。
向拝唐破風の先端の懸魚にも、雲間を翔る麒麟が配されている。

飯縄寺には、源義経が京都から奥州に向う途中に立ち寄ったという話がある。京都鞍馬山の大天狗から「奥州に向うなら、わしの知り合いのいる上総の国の飯縄寺へ訪ねるがよい」といわれ、伊豆から渡ったという話が伝わっている。
本堂結界欄間の「天狗と牛若丸」の彫刻は、「波の伊八」の40代半ばの作で、10年の歳月をかけて彫られたという。その間、馬に乗って海に入り波の崩れる様子を見ていて、波頭の表現を身につけ、行元寺の「波と宝珠」の表現にも繋がったといわれる。縦1m、横4mの一枚板の欄間は、樹齢約1000年の赤欅と堅い材質だが、木目が美しく牛若丸や天狗の衣装の模様となるように彫られ、中央に「天狗と牛若丸」、左右に「波と飛竜」が配されている。ここから天井画までは撮影禁止なので、パンフの切り抜きにする。

天狗の目は今でも見る者の目を射抜くように鋭く、飛竜の顔の表情も迫力に満ちている。飛竜の下の砕ける波の躍動感は比類なく、行元寺の「波に宝珠」=天下一の波の先駆けといえよう。

天井画の墨絵「龍」は、平成の大修理のとき、「秋月等琳」の銘が発見され、「雪山」の落款から、葛飾北斎の師匠である3代目堤等琳の作であると判明した。

本堂手前にも三つ穴灯籠があり、その向こうには紫モクレンがたくさん花を咲かせていた。