半坪ビオトープの日記

筑波山神社、随神門


筑波山の中腹、標高約250mの緑深き森の中にある筑波山神社は、西峰(男体山)と東峰(女体山)を神体とした、縁結び・夫婦和合の社として知られている。大きな神社なので西のはずれの駐車場から境内に入った。そのため参道の始めにある神橋を上から眺めることになった。
寛永10年(1633)3代将軍家光の寄進といわれる神橋は、桁行4間梁間1間切妻造杮葺きで妻入りの反り橋である。普段は渡れず、参拝者は春秋の御座替祭と年越祭に渡橋が許される。

筑波山はまた幕末の天狗党挙兵の地で、その中心的人物であった藤田小四郎の像が、平成2年に神橋より下の境内入口付近に建てられた。水戸藩内で諸生派と対立する天狗党の藤田小四郎(藤田東湖の子)は、元治元年(1864)筑波山尊王攘夷の兵を挙げ、知足院大御堂に本陣を置いた。その後、筑波山から本陣を移して戦いは進められたが、次第に形勢不利となった天狗党は、一橋慶喜尊王攘夷の真情を訴えようと京都へ向かったが、諸藩との転戦の中、北陸道で遂に力尽きて加賀藩に降伏し、352名が処刑された。
県内随一の規模を誇る随神門は、間口5間2尺奥行3間の八脚楼門で、寛永10年(1633)3代将軍家光の寄進のあと二度火災で焼失し、文化8年(1811)に再建されている。かつてこの随神門は、本殿のある筑波山を拝む遥拝所であったといわれている。

元は仁王門だったが、明治の廃仏毀釈で随神門となった。左側に倭建命が睨みを利かせる。倭建命は、東征の途次筑波山に登拝した。東征の岐路、倭建命が甲斐国酒折で「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」との問いかけに、火守翁が「日々(かが)なべて夜には九夜日には十日を」と答えたのが連歌の始まりとされる。この故事により、連歌道を筑波の道といい、連歌集に「莵玖波集(つくばしゅう)」などの名がつけられた。

随神門の右側には、豊木入日子命の像が立っている。豊木入日子命は、第10代崇神天皇の皇子で、長くこの地を治めた古代武人と伝えられている。

随神門の右手奥には、境内随一の古木、樹高約32m、樹齢約800年といわれる御神木の大杉がそびえている。根元が特に大きく張り出している。

随神門の左手には、万葉歌碑が四つも並んでいる。一番右の歌碑には、
「橋の下吹く風のかぐはしき筑波の山を恋ひずあらめかも」       万葉集(巻二十4371)
次の歌碑は、丹比真人国人が詠める歌  筑波の岳に登りて
「鶏が鳴く 東の国に 高山は さはにあれども
二神の 貴き山の 並み立ちの 見が欲し山と
神代より 人の言ひ継ぎ 国見する
筑波の山を 冬こもり 時じく時と 見ずて行かば
まして恋しみ 雪消する 山道すらを
なづみぞ 我が来(け)る」                     万葉集(巻三382)
3番目の歌は、筑波の岳に登りて、反歌
「筑波嶺を 外のみ見つつありかねて 雪消の道をなづみ来るかも」   万葉集(巻三383)

万葉歌碑のさらに左手に、厳島神社がある。間口1間半奥行10尺の春日造で、寛永10年(1633)家光の寄進である。祭神は、市杵島姫命で、琵琶湖の竹生島より分霊を祀っている。