半坪ビオトープの日記

石岡の陣屋門


石岡小学校から市民会館にかけての一帯が常陸国衙跡と推定されている。南北朝時代の正平元年(1346)ここに大掾詮国(だいじょうあきくに)により府中城が築かれた。常陸大掾氏は、常陸平氏本宗の家系で、府中城を拠点に勢力を誇ったが、天正18年(1590)佐竹義宣の攻撃で府中城は落城し、大掾氏も滅亡した。元禄13年(1700)2代水戸藩徳川光圀の弟松平頼隆が府中藩主となり、この地に陣屋が置かれた。府中松平氏は、水戸徳川家の分家として「御連枝」と呼ばれた。

現在の陣屋門は、文政11年(1828)に建てられた。本柱の上に妻破風造の屋根がつき、控柱の上にも本屋根と直交する別棟の小屋根をつけ、扉と控柱とを覆っている高麗門の形式である。冠木と棟木間が土壁で閉ざされている高麗門とは異なり、冠木が本柱を貫き通し、冠木と棟木間に格子を組み入れるなどの手法を見せている。

石岡小学校開設百周年記念事業として、昭和48年に石岡市民俗資料館が建てられた。常陸国衙跡、国分寺跡、国分尼寺跡、茨城廃寺跡などからの出土品や復元模型などが展示されている。

この箱式石棺は、昭和51年に近くの古墳で発見されたものである。石棺内部には、人骨2体が埋葬されており、追葬の形式がとられていた。石棺の分布は、関東では茨城県が最も多く、霞ヶ浦周辺は濃密に分布している。古墳時代後期(約1500年前)から出現するが、本古墳のように飛鳥、奈良時代のものの方が数多く見られる。

石棺の右に、府中城の土塁の一部が残されている。府中城の規模は、東西約500m、南北約400m、本丸、二の丸、三の丸のほかにも出丸を備え、堀、土塁を巡らした堅固な城郭であった。

石棺の左には、風間阿弥陀が祀られている。康正元年(1455)足利氏と上杉氏との戦いで、小栗城陥落の際、小栗助重の家臣の風間氏が、常陸府中に逃れて来た時にもってきたとされる。この像は、粘土で固められた特異な形をしていて、本尊は地中に埋められていると言い伝えられている。

風間阿弥陀の脇に、万葉歌碑がある。
庭に立つ麻手刈り干し布さらす 東女を忘れたまふな  常陸娘子
常陸国風土記を完成させて太政官に奏上した監修者とされている、藤原宇合常陸守兼按察使に任命されたのは養老3年(719)である。帰任に際しての歓送の宴に侍った女性の一人が、この常陸娘子(ひたちのおとめ)であった。