半坪ビオトープの日記

常陸国分寺跡


国分寺は、天平13年(741)国家鎮護を祈る聖武天皇の命で、国分尼寺とともに国ごとにおかれた僧寺である。常陸国分寺は、天平15年に起工し、天平勝宝4年(752)に建立された。常陸の守は従三位宮内卿百済の王敬福が任命された。常陸国分寺は最勝王経10部と僧20名、封戸50戸、水田10町、寺料は6万束で、近江国とともに最高であった。

寺域は東西南北ともに約300mで、全国の国分寺の中でも壮大な規模を誇っていた。塔跡の七重の塔には金宇金光明最勝王経が配置され、金堂跡の礎石、講堂跡礎石、中門跡礎石、回廊跡、仁王門跡が確認されている。ここが中門跡である。

正式名称は、金光明四天王護国之寺という。常陸国分寺は、戦国時代に府中城が佐竹氏に攻められたときに焼失した。元禄時代に本堂が再建されたが、明治41年の大火で焼失した。この薬師如来堂は、国分寺跡に明治43年に筑波四面薬師の一つである山中薬師を移設したものである。

本堂の右奥に、都々一坊扇歌堂が建っている。扇歌は、文化元年(1804)久慈郡佐竹村(現、常陸太田市)に生まれ、20歳で家を出て江戸に向かい、音曲噺の大家、船遊亭扇橋に弟子入りした。江戸で評判も高くなり、京・大坂方面を巡業しながら、新しく作った都々逸節を広めた。江戸に戻ってもお上も恐れず風刺歌(上は金、下は杭なし吾妻橋)を歌ったので幕府から江戸払いとなった。姉の嫁ぎ先の常陸府中に身を寄せた後、身体を壊し、「今日の旅 花か紅葉か知らないけれど 風に吹かれて行くわいな」の歌を残して、嘉永5年(1852)に49歳でこの世を去った。六角堂の扇歌堂は、扇歌80周年忌を記念して昭和8年に建てられた。

都々一坊扇歌の墓は、国分寺本堂裏の墓地にある。墓石は、分かりにくいが太い木柱の右裏にあり、苔むしている。

ほかにも墓地にはかなり古そうな墓石がたくさんあった。